アルファロメオを象徴するレースカー・ティーポ33/TT12を伝説のドライバー3人が試乗テスト

Photography: Tim Scott



しかし、そのデビュー戦は禍々しいものだった。タイヤの剥離が起きたためにドライバーのアンドレア・デ・アダミッチはスタヴロのバリアに激突。その後もTT12は随所でそのポテンシャルを示したが、苦しい戦いが続いた。何らかの開発が必要なことは明らかだった。そこでキティは、フェラーリ、マトラ、ミラージュらが鎬を削り合うル・マンをスキップし、翌シーズンに向けた開発に専念する決断を下したのである。

翌1974年はアルファロメオのための1年として記憶されてもおかしくなかった。フェラーリは選手権への参戦を見送り、TT12の弱点は大幅に改善されていたからだ。ところがアルファロメオが国営化されたことで政治の影響から逃れられなくなり、さらにオイルショックがモータースポーツを時代遅れなものにしようとしていた。エントリーが減少傾向にあるなか、この記事で紹介するTT12がメルツァリオとアンドレッティのドライビングによりモンツァで優勝を飾ったが、8月にはアルファロメオの会長がシーズンの残りレースに参戦しないことを発表。しかも、販売不振から経営難に陥っているイタリアの自動車産業界を引き合いに出し、今後復帰する見込みがないことを示唆したのである。

カウーゼンのころ

ここで登場するのが、ドイツ人のチームオーナーでレーシングドライバーでもあるウィリィ・カウーゼンである。ドイツ・インターセリエ・スポーツカーレースの常連だったカウーゼンはドイツのソーセージ・メーカーからの支援を得て、1975年シーズンに向けてこのプログラムを買収することを思いつく。いっぽう、アルファロメオの決定に絶望していたキティは、何らかの支援を受けることを検討していた。カウーゼンはチームの新しいスポンサーになったのか。新任のチームマネージャーか。それともチームオーナーなのか。

いずれにせよ、キティに大規模な改革を実施するつもりはなかったようだ。なにしろ、マシンもファクトリーマシンであることを示すレッドにペイントされたまま。新たに手を加えられた点といえば、WKRT(ウィリィ・カウーゼン・レーシング・チームの頭文字)のロゴがノーズ部分に描かれただけである。

このとき起きたことについては、人によって様々なとらえ方があるようだ。カウーゼンが連れてきたドイツ人のメカニックたちが状況を一変させたとか、イタリアから資金提供を受けていないことを偽装するために彼らは利用されたとか、そんな話である。ドイツかイタリアか。カウーゼンかキティか。いずれにせよ、彼らが数多くの栄冠を手に入れたことは間違いない。

ベル、ペスカローロ、メルツァリオ、イクス、シェクター、ラフィット、アンドレッティ、マスといった名手たちの手で8戦中7勝を挙げたアルファロメオは、ついにワールドチャンピオンシップのタイトルを手に入れた。この年はドライバーズ・チャンピオンシップが設定されていなかったが、もしもそれがあったならベルがチャンピオンに輝いたに違いない。「選手権ではアルファで4勝したほか、ミラージュを駆ったル・マンでも優勝したんだ」とベル。「この年、カウーゼンの関わりはとても重要だったのに、これまではなぜか見過ごされてきた。信頼性が改善されたのはカウーゼンのおかげで、ターボエンジンを搭載したルノー・アルピーヌに勝てた主な理由もここにあった。キティは優秀だったけれど、私自身はほとんど彼と関わりがなかったんだ」

パワフルでよく太ったキティの弱点は、細かいことを気にしすぎる点にあった。「偉大な人物で優秀なエンジニアだったよ」とアルトゥーロ・メルツァリオは2本目のコークを飲みながら語り始めた。「でも、人に仕事を任せるのが得意ではなかった。僕たちはブレーキのオーバーヒートで多くのレースを落としたけれど、まったく新しいデザインのT12が発表されたときにもブレーキのオーバーヒートは起きていたんだ。自分が乗っているときにこの問題が起きなければいいと、いつも祈っていたよ」

編集翻訳:大谷達也 Transcreation: Tatsuya OTANI Words: Sam Hancock

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