フェラーリ250LM|身だしなみの良い悪魔

Photography:Paul Harmer

--{GTカーと認めさせようとしたフェラーリ}--

250LMはGTカーだと認めさせるためにフェラーリは努力を惜しまなかった

フェラーリは、国際レースの統括団体であるCSI( CommissionSportive Internationale=FIA:国際自動車連盟のモータースポーツ部門で後のFISA)だけでなく、広く世間に250LMがGTカーであることを認めさせようと全力を尽くした。たとえ実質的には1963年のル・マン24時間を制したスポーツプロトタイプの250Pに屋根を取り付けただけの車だったとしても、新しいロードゴーイングGTであると言い張ったのである。依然として250GTOはGTカテゴリーの王者として君臨していたが、シェルビー・コブラをはじめとしたライバルの成長は目覚ましく、フェラーリも新しい武器を必要としていたのである。しかし、それには明らかな、しかも大きな問題があった。250LMをGTカテゴリーとして認可させるには最低100台という義務生産台数をクリアする必要があったのだ。

フェラーリは、ホモロゲーションに関するレギュレーションをすり抜ける達人であり、250GTOの際にもCSIを欺いてまんまと認証を手に入れていた。新しい車も間違いなく判を押してもらえることを疑わなかったコンメンダトーレは、LMに奇数のシャシーナンバーを割り当てた。フェラーリの決まりでは、奇数はロードカー、偶数がレーシングカー用の番号なのである。だが、今回はCSIも騙されなかった。フェラーリの申請は却下され、LMはGTではなく、スポーツプロトタイプとしてレースに出ることになった。

ホモロゲーションにまつわる物語は1964年に続く。CSI(とFIA)に対して癇癪を爆発させたエンツォ・フェラーリは、その年のF1グランプリの最後の2戦、アメリカとメキシコGPからワークスチームを引き揚げさせた。とはいっても、連合軍たるNART(ノースアメリカン・レーシングチーム)が代わりに出場していたのだから、いわばポーズに過ぎなかった。

その250LMは、第一線のレースで活躍するには重すぎた。ゆえにほとんどの勝利は地元のスプリントレースやヒルクライムなどで挙げたものだった。もちろん1965年にはル・マンで歴史的な優勝を遂げているが、前述の理由からこの勝利は大番狂わせと見られていた。そのうちにCSIは態度を軟化させ、LMに一応の承認を与えることになったが、結局エンツォが期待したような無敵の王者にはなれなかった。しかしながら、スーパーカーのパイオニアを名乗るには十分すぎるほどの資格を持っていると言っていいだろう。

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ここに紹介するフェラーリ250LM、シャシーナンバー6045は、全部で32台作られたLMのうちの19台目で、1965年にリノのカジノ王、ビル・ハーラーが購入した車である。世界的に有名なカーコレクターにして7度も結婚したこの億万長者は、イタリア製高性能スポーツカーの大の贔屓筋であり、数ある所有車の中には410スーパーアメリカやフェラーリV12を積んだジープ・ワゴニアなど広く知られたものもある。ハーラーは1966年4月までこの車を所有していたが、その時点でオドメーターはわずか800マイル、しかも1マイルたりともサーキットを走ったことはなかったという。時は下って1969年、二番目のオーナーであるビバリーヒルズのDr.ハート・アイザックスが交通事故に巻き込まれ、燃料タンクのひとつが裂けて出火、LMは片側に酷いダメージを負ってしまった。

その後の話は、この手の車にはよくあることだが、非常に入り組んでいる。あえて要約すると以下のようになる。1971年にこのLMはインシュランス・オークションにかけられ、カリフォルニア州ベルフラワーのドナルド・シンプソンの手に渡る。そしてヒストリアンでコレクターのロン・ケロッグの助言を受けて、車は一部解体され、グラスファイバー製ボディに置き換えられた。1972年にケロッグがその計画を引き継ぐが、一年後にエンジンは250GTOオーナーのDr.スチュアート・バウムゴールドに売られ、またシャシーやトランスアクスル、ホイール、そしてボディなどは、Dr.ハミルトン・ケリーが自分のLM(No.6023)用のスペアパーツとして買い取った。ただし、フレームを引き取る際にトラックの荷台からはみ出すことが分かり、その後部を切り取ってしまったのだ。この乱暴な処置がLM6045を数奇な運命に巻き込むことになる。カットオフした部分にこそ、大切なシャシーナンバーが刻まれていたのである。

ここまでで十分に複雑だが、物語はまだまだ終わらない。ケリーはほとんど完成したシャシーを、大学教授のチャールズ・ベッツとフェラーリ・レストアの第一人者であるフレッド・ロジャースに売却、そのロジャースは1980年にランチアのワークスドライバーだったジョルジョ・ショーンへ転売した。ショーンは、フェラーリの顧客サービス部門のガエターノ・フロリーニにシャシーのチェックを依頼、本物であるとのお墨付きを得た。そこで伝説のフレームワーカー、ウィリアム・ヴァッカーリ(スペースフレームを最初に製作した会社である)に依頼してレストア、その後完成品をスイス人ブローカーのウルリッヒ・グジスバーグに売却する。その彼に頼まれたコーチビルダーのフランコ・バッケリとロベルト・ヴィラが新しいボディを叩き出し、同時にその時代のふさわしいエンジン(おそらく250P用)を探し出した。出来上がった車は日本と米国の間を行ったり来たりした後、2007年に英国のDKエンジニアリングの顧客の手に渡った。

そのいっぽうで、同じような物語が進行していた。10年以上前にオリジナルの6045から切り取られたフレームの一部を使って、二台目の車が米国で製作されていたのである。6045のV12エンジンが積まれたこのレプリカはアリゾナ州のエンスージアストの手に渡ったという。つまりこれで二台の6045が存在することになった。一台はオリジナルシャシーを持つがシャシーナンバーとエンジンがなく、もう一台は本物のナンバーとエンジンを持つコピーというわけだ。

ここまで来たら決着を知らずにはいられないはずである。DKエンジニアリングがそのもう一台のLMを手に入れたことが最終章だ。そのV12エンジンが再びオリジナルシャシーと結ばれたのは、離れ離れになってから実に38年後、2011年9月のことである。そしてオーナーはフェラーリ・クラシケを招き、フレームの最後の部分を移植した。すなわち、正しいシャシーナンバーをレプリカシャシーからオリジナルへ移し替えたのである。



本来の姿にレストアされた6045は、遅ればせながら本来の住処であるサーキットで見かけられるようになり、グッドウッド・リバイバルやルマン・レジェンズなどのイベントにも顔を出している。しかしながら、それでもこの車はある種のロードカーであり、一般道に引き出したい欲求に駆られる。つい忘れがちだが、250LMは非常にコンパクトな車であり、またその生い立ちの裏に色々と思惑があったとしても、ピニンファリーナにとって初めてのミッドシップの市販モデルという記念すべき作品である。当時は、短いノーズと長いテールを持つキャブ・フォワードのプロポーションが不評だったが、大きなエンジンとギアボックスを収めるためにはピニンファリーナの腕を持ってしても限界があったということだろう。もちろん、現代の目には正しく考えられた芸術作品と映る。今やコーチビルダーがレーシングカーを形作る時代は終わり、スポーツプロトタイプは幾何学的な形状を持ち、ボラーニホイールは幅広いマグネシウムホイールに置き換えられている。

それにしてもLMに乗り込むには骨が折れる。あの当時はいったいどうやって素早いドライバー交代ができたのだろう。ナルディの巨大なステアリングホイールを避けながら、不自然な格好で体を折り曲げながら乗り込むと、湾曲したウィンドスクリーンからの眺めは抜群、もっとも自分の足がフロントアクスルよりずっと前に出ていることを意識させられる。予想通りトリムはごく簡素で、ヴェリアの回転計とオイル/水温計などの主な計器はナセルに収められてウッドリムに半ば隠れている。その他のメーターは右側、役に立たないパーキングブレーキの真上に設けられている。

キーを回して燃料ポンプのカチカチ音を待ち、スターターボタンを押すと短いヒューという唸りの後にこの世の終わりのような轟音が聞こえてくる。大きいなどという表現が及ばないほどだ。だがそれは誰かに、もし聞こえる人がいるならばどうしても伝えたくなるような音である。とにかく偉大な機械である。

クラッチは思ったほど重くはないが、ノンシンクロのギアボックスはシフトアップもダウンもダブルクラッチを踏む必要がある。当時のスペック通りのこの車はギアも内製であり、1速から2速へアップする際にはややひっかかるが、Hゲートの中に入ってしまえば正確にシフトできる。ただし、回転を下げるとガリッと抗議の声を上げる。何しろ250LMはゆっくり運転することができない車、それを許してくれない車なのだ。ラック&ピニオン・ステアリングは想像するよりずっと軽い。低速ではノーズが落ち着かず神経質だが、スピードが上がると何事もなかったように安定する。タイトなコーナーでは適度なアンダーステアを見せるが、限界まで試すのでなければ自信をもって操縦できる。LMは多くのスーパーカーよりも、ドライバーの対応力を要求すると言えるだろう。

エンジン回転が一旦パワーバンドに入れば、文句のつけようもない。
人を虜にするような魔力を持つ


とはいえ、LMの神髄はエンジンである。車重はわずか850kg、それに対してパワーは320bhpである。0-100mph加速の12秒というタイムは、当時としては抜群のもので、458イタリアでも少しは驚いたはずだ。エンジン回転がスイートスポットに入っている限り、少しも不足を感じることはないはずだ。このエンジンは癖にさせるような魅力を持っている。もっとも、ロードカーとしては数多くの欠点があることを忘れてはいけない。乗員をジリジリ焼き上げるような熱さのほかにも、ギアレバーはパセンジャー側に傾いているし、乗り心地は奥歯がガチガチ当たるような類だ。何しろ、大きな声では言えないが、本当はレーシングカーなのである。

250LMは最近のホモロゲーション・モデルとそれほどかけ離れているわけではない。もちろん、一般路上でのマナーは、たとえばフォードGT40と同じではないが、ルックスも性能も、そして血統も完璧だ。フェラーリは便宜上ロードカーと言ったのかもしれないが、LMは文字通りのスーパーカーである。若干、年齢を取ったかもしれないが、その魅力は少しも色褪せてはいない。

フェラーリ250LM
エンジン:軽合金製60°V12 3286cc ツインチョークウェバー38DCN×6基
最高出力:320bhp/7500rpm 最大トルク:213lb-ft/5000rpm
トランスミッション:5段マニュアル ステアリング:ラック&ピニオン
サスペンション:前後ダブルウィッシュボーン、
コイルスプリング/油圧ダンパー、スタビライザー
ブレーキ:4輪ディスクブレーキ(リアはインボードタイプ)
車重:850kg 最高速度:180mph


短いノーズと長いテールが当時の批評家の気に入らなかったようで、LMの美しさは当初は評価されなかった。もちろん現代では正当に、芸術品とさえ認められている。



この車は波乱万丈の経歴を持つ。事故による出火のためにエンジンとシャシーはバラバラになったが、それから38年後の2011年に再び結ばれた。



LMの真髄はやはりエンジンだ。320bhpのピークパワーを誇るいっぽう、車重はわずか850kg。回すほどに本領を発揮するが、歯の根が合わないような乗り心地を覚悟する必要あり。


フェラーリは誰をかつごうとしたのか?簡素なトリムやペダルなど、すべてがレース用であることを示している。エンジンをかければ疑いようもないほどの轟音を発する。


編集翻訳:高平高輝 Transcreation: Koki TAKAHIRA 原文翻訳:数賀山まり Translation: Mari SUGAYAMA Words:Richard Heseltine 

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