バック・トゥ・ザ・フューチャーのデロリアンの知られざる悲劇的な歴史とは

デロリアンDMC-12

車好きにとっては、理想をカタチにすることが叶わなかった悲運の一台。それほど興味のない人にとっては、映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のタイムマシン。日本におけるデロリアンのイメージとはそのようなものではないだろうか?この30年間で最も誤解され、そして愛された車──正式名称、デロリアンDMC-12。この車には、ガルウィングドアやステンレスボディ以上に語られるべき物語があるという。

夢の車が悪夢に姿を変えるのは、自動車業界の歴史においてはめずらしいことではない。だが、生みの親の希望や野心を体現しながら、派手な大失敗に終わった車を語るなら、デロリアンDMC-12ほどの車はなかなかない。

夢への一歩

物語は、1973年4月、次期社長候補の一人であったジョン・ザッカリー・デロリアンが、ゼネラルモーターズ副社長の職を突然辞任したところから始まる。ジョン・Zが退社した理由は自らの会社を興し、GMが決して手掛けないタイプの車を作るためであり、その一台を作るため、GMからトップエンジニアであるビル・コリンズを引き抜いた。BMWに感銘を受けていたジョン・Zは、CSクーペと同じ顧客層の車を生み出そうと決めた。ヨーロッパ的な香りを強く持ち、欧州に憧れを抱くアメリカ人をうならせるもの。世間をあっと言わせてヨーロッパのライバル車から顧客の目を引きつけようと考えた2人は、ステンレススチールを使ったボディとガルウィングドアの採用を決めた。

その年の暮れ、ジョン・Zとコリンズはジョルジェット・ジウジアーロに接触した。彼らが、ジウジアーロに出した条件は、ステンレススチールを使ったボディとガルウィングドアに加え、段差の少ないバンパー、むき出しのヘッドライト、ミッドエンジンレイアウト、背が高くてもゆったりできる車内空間だった。

エンジンについては、コリンズはロータリーエンジンの採用を考えていたが、交渉は整わず、最終的にはPRV(プジョー/ルノー/ボルボの共用エンジン)のドゥブラン工場製V6に決まった。しかし、ここですでに行き違いが生じた。ジウジアーロはもっと小型のエンジンを想定し、デザインに取りかかっていたため、根本的な設計変更が行われることになったのだ。結果的にDMC-12はリアエンジンとなったのだが、それはジョン・Zが、車内空間(とゴルフバッグの収納場所)の確保を譲らず、かつ想定以上に大きなこのエンジンを搭載することとなったからだ。この問題を解決するため、コリンズたちは同じリアエンジン車であるアルピーヌ・ルノーA310 V6のレイアウトを模倣することとした。

ただ、最初の走行可能なプロトタイプは順調に仕上がり、短期間で完成した。ボディ構造には、先進的な合成方式(ERM方式)を採用。それはふたつに分かれた下部構造にスチールパネルを接合するという画期的な新技術だった。その先進性から、『Road & Track』誌は「衝撃的」と紹介した。メディアの熱狂もあり、投資家からの出資を得られる見込みもつき、夢が現実味を帯びてきた。

だが、切迫した課題があった。それは、 DMC.12の生産拠点だ。当初、アメリカ政府の援助を得てプエルトリコで製造する見込みだったものの、プロジェクトが遅れたため、北アイルランド開発庁との交渉をはじめた。ジョン・Zは短期間の交渉でイギリス政府を懐柔、1978年7月には1億1700万ドルに上る補助金を取り付けた。この合意により、北アイルランド・ベルファスト近くにあるダンマリーという街の更地に生産拠点を建設することとなった。

すぐさま、ジョン・Zは生産に向けて会社の態勢を整えた。生産拠点であるダンマリーに加え、経営と買い付けの拠点をコベントリーに開業。また、コリン・チャプマンと契約し、ロータスがヘセルでDMC-12の開発を行うことで合意した。しかしながら、チャプマンやロータスと仕事はできないことはコリンズにはすぐ分かった。自分がデザインした革新的な車が、ロータスの設計理念に合わせて変えられていくのを見ていられなくなったコリンズはDMC-12開発の現場を去ることになる。

ただ、生産までの時間的余裕がなかったため、ロータスにも選択の余地はほとんどなかった。設計チームは、オリジナルの下部構造をほとんどやめ、エスプリとほぼ同じシャシー構造を採用することとなったのだ。それは、バックボーン型シャシーを採用し、コストのかかる複雑なERM方式の代わりに、真空補助樹脂注入 (VARI)方式を取ることだった。VARI方式の特許をもつロータスには、1台生産するごとに特許使用料が入るというものだった。

サスペンションも、独立懸架式で、フロントはダブルウィッシュボーン、リアはマルチリンクという、エスプリとほぼ同じものになった。当然、ハンドリングが良く、比較的高いライドハイトとグリップの高い大きなタイヤのおかげで、乗り心地のほうも素晴らしかった。ラック・ピニオン形式を採るステアリングもロータススペックで、ロック・トゥ・ロック2.65回転というスポーティな仕上げだった。ところが、優れたシャシーに反して、パフォーマンスは期待はずれだった。特に、排気系を取り付けてみると、 2.8リッターV6エンジンからの出力が、わずかに130bhpだったのだ。ただ、内部構造は激変したが、外観はジウジアーロのオリジナルに忠実だった。

イギリスに拠点を構えて1年後の1979年12月には、ロータスは生産に移るプロジェクトを完成して引き継ぎを始めていた。開発も、実走テストによるチューニングも終わっていなかったが、舞台はアイルランドへと移り、次の幕が上がろうとしていた……。


ガルウィングドアは、ジョン・デロリアンが最初に設けた条件。メルセデス・ベンツ300SLに感銘を受けてのことだった

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