オースティン7、シボレーM8D…マクラーレンを象徴する名車と50周年記念モデル

ブルース・マクラーレンのオースティン7




マクラーレン・コスワースM23
たった1シーズンだけのために開発され、あっという間に型遅れになってしまう現代のフォーミュラ1マシンを考えると、M23の.寿命.の長さは信じられないほどだろう。実際このマシンはデビューから4シーズンにわたってグランプリで勝利を挙げ続けたのである。インディ用のM16をベースに主にゴードン・コパックがデザインしたM23は、ヤードレイ・カラーをまとって1973年キャラミの南アフリカGPでデビュー、その緒戦でポールポジションを獲得したうえに、デニー・ハルムとピーター・レブソンはその後シーズン3勝を挙げた。以降M23は最終的に1978年までプライベート・チームの現役マシーンとして使用されていた。

ここに紹介するM23は、近年になってタバコ広告が全面禁止されたせいでマルボロ・カラーをはぎ取られているが、タバコメーカーがM23の最初のチャンピオンシップ獲得だけでなく、マクラーレン・チームを支えたことは動かしようがない事実だ。フィリップ・モリス社は BRMの成績が振るわないことに失望し1973年の半ばに彼らの宣伝予算をエマーソン・フィッティパルディに委ねることにした。どこのチームでも、彼がシートを望むチームに予算を持って行っていいと伝えたのである。その結果、エマーソンは72年のドライバーズ・タイトルを勝ち取ったロータスを離れ、マクラーレンに移籍することを決めた。

そうして生まれたのがテキサコ -マルボロ・マクラーレン・チームだった。ドライバーはフィッティパルディとハルム、いっぽうヤードレイはマイク・ヘイルウッドが乗る3台目のM23をバックアップしていた。1974年にエマーソンは2度目のドライバーズ・タイトルを勝ち取り、マクラーレンは初めてのコンストラクターズ・チャンピオンに輝いた。75年シーズンはニキ・ラウダに敗れたフィッティパルディは、76年の開幕直前に突然兄のウィルソンが興したチームに加入することとなり、彼の代わりに白羽の矢が立ったのが、その前年にヘスケス・チームで初勝利を挙げていたジェームス・ハントだった。ラウダが九死に一生を得たニュルブルクリンクでのアクシデントは有名だが、1976年は実に波乱に満ちたシーズンだった。この年、ハントは酷い大雨の富士での最終戦日本GPでチャンピオンに輝いた。

1977年シーズンが開幕しても後継モデルとなるM26は万全ではなく、ハントとマスはまたもM23でレースに臨んだ。さすがに古臭くなってはいたが、依然として競争力を持っていたからである。ジル・ヴィルヌーヴやブルーノ・ジャコメッリ、ネルソン・ピケといった次代のスタードライバーたちもこのM23でデビューを果たしたことを見落とすわけにはいかない。ロータス72ほど画期的ではなかったかもしれないが、計16勝とポールポジション14回という成績はグランプリ史にはっきりと記されるべきものだ。


そのカラーリングからマルボロがスポンサーだったことは容易に想像できるが、タバコ広告の禁止によって、あの有名なロゴを思わせるものはすべて取り去られている。エマーソン・フィッティパルディは歴史的な名機コスワースDFVエンジンを背後に抱え、このコクピットに座ってグランプリを戦った

RECOMMENDEDおすすめの記事


RELATED関連する記事

RANKING人気の記事