オースティン7、シボレーM8D…マクラーレンを象徴する名車と50周年記念モデル

ブルース・マクラーレンのオースティン7




マクラーレンF1 GTR
ロン・デニスは頑なだった。F1スーパーカーはあくまでロードカーであり、レース出場を考えて開発された車ではなかったからだ。そもそも最初にF1のアイディアが生まれた時、この種の車が参加できるレースはなかった。ゴードン・マーレイが設計し、ピーター・スティーブンスがデザイン、専用のBMW製V12エンジンを積んだF1はスーパーカーの名門ブランドに挑戦するものであり、それ以上の狙いはなかったのである。

1992年にこの車の生産が始まった頃、グループCカーによる耐久レース選手権は終焉を迎えつつあった。その2年後にはBPR耐久GTシリーズがスタートしたが、最初はチャンピオンシップに関わりのないレースだった。翌1995年にその状況が変わると、レイ・ベルムやトーマス・ブシャーといったジェントルマンドライバーたちは、レース用のパッケージを用意してくれるように、ロン・デニスに繰り返し要請したのである。

結局デニスが折れ、後にブガッティのボスとなるトーマス・ブシャーとジョン・ニールセンはF1 GTRを駆ってBPRシリーズのタイトルを獲得する。しかし、より重要なニュースは同じ年のル・マン24時間レースを制したことだった。言うまでもなく、GTカーはスポーツプロトタイプには性能で敵わないのが常識だが、デレック・ベルと息子のジャスティン、そしてアンディ・ウォレスが操縦した車は、クラッチ・ベアリングにトラブルが発生するまで、酷いウェットコンディションの下、16時間にわたってレースをリードしてみせた(最終的に3位でフィニッシュ)。後日製造上の問題と判明する同じトラブルが他のマクラーレンにも起こると思われたが、しかしJ.J.レートとヤニック・ダルマス、そして関谷正徳がステアリングを握ったこのウィニングカーはそれを免れた。というのも、ランザンテ・チームとエンジニアのグレアム・ハンフリーズは、テストで実績のある古いタイプのベアリングを使うことを選んでいたからである。

ロードカーを多少改造したGTカーが、他のもっと本格的なレーシングカーを向こうに回して、世界で最も有名な耐久レースを制したことは驚くべきことだった。もっとも、これが一部のチームやドライバーとマクラーレンの間のちょっとした揉め事の種となった。優勝したF1GTRは実のところワークスカーではないか、と彼らは非難したが、マクラーレンが法廷に持ち込む構えを見せると、たちまち騒ぎは収まった。

その後もF1 GTRは進化を続け、96年にはベルムとジェームス・ウィーバーがBPRタイトルを、ニールセンとデイヴィド・ブラバムは全日本GTカーシリーズのタイトルを勝ち取った。97年になるとBPRシリーズはFIA GT選手権に生まれ変わったが、その頃になるとポルシェやAMGなどのライバルが立ちふさがり、レートとスティーブ・ソーパーが駆ったBMWモータースポーツ・マクラーレンは11戦中4勝を挙げたものの、メルセデスのベルント・シュナイダーにわずかに及ばずドライバーズ・タイトルを逃した。だが、モータースポーツをまったく想定していなかった車にしては、実に驚くべきキャリアではないだろうか。


そもそもレースへの出場を想定していなかったF1のBMW製V12ユニットは、インテーク・リストリクターによってロードカーよりも出力を抑えられていた。クラッチ・ベアリングの製造品質の問題がマクラーレンの挑戦を台無しにしかけたが、異なるベアリングを使用したこの車が1995年のル・マン24時間レースを制した

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