ヌッチオ・ベルトーネがデザインした究極のショーカー|圧倒的な存在感を放つ正体は?

ストラトス・ゼロ

1960年代が終わるころ、世界中の有名デザイナーたちは究極のショーカーを生み出すべく、熱い戦いを繰り広げていた。そこにまさしく彗星のように現れたベルトーネの斬新なコンセプトカーが並み居るライバルたちを吹き飛ばす。1970年のトリノ・ショーに出品されたストラトス・ゼロである

ガンディーニ・ショック
彼こそあの時代の最も才能あふれたデザイナーだと言う人もいる。マルチェロ・ガンディーニは片足を現実世界に、もう一方の足は自分だけの世界に置き、そしてヌッチオ・ベルトーネという実力と理解のある後ろ盾を持っていた。彼の芸術性はストラトス・ゼロで遺憾なく発揮されたと言える。ただしそれは物議を醸したことは間違いないが、車としてライバルのカロッツェリアの注意を引くことはそれほどなかった。

というのも、今でこそ自動車デザインの"クラシック"として崇められているストラトス・ゼロだが、1970年のトリノ・ショーに姿を現した際の反応は、否定的意見と無関心が入り混じったものだった。とにかく評価が分かれていたのである。

より正確に言えば、ストラトス・ゼロに嘲笑を浴びせたのは世界の自動車メディアである。一部の人にとってゼロはその奇抜さだけで十分に魅力的だったが、長続きするような種類のものではなく、また大多数の人にとっては、ただ単に刺激的な作品であり、自動車というよりは彫刻と言うべきものでそれ以上の意味を持たなかった。要するに現実味のあるデザインスタディとは受け止められなかったのだ。英オートカー誌のショーリポートはもっとも思いやりのあるもののひとつだったが、それでも4ページの特集記事の最後にちょっと紹介されていただけで、リポーターのジェフリー・ハワードは「究極のウェッジシェイプ」と簡単にコメントしている。いっぽうでロード&トラック誌の記者だったシリル・ポスタマスは「ストラトスは美しく仕上げられている。デザインとはこうあるべきだと多くの人が考えているだろう」と評している。

しかしながら、否定的な報道が多数を占めていたにもかかわらず、そのような見方には与しない者もいた。先見の明を持ち、ゼロに可能性を見出した少数派の代表がご存知チェーザレ・フィオリオである。ランチアと関係が深かった元レーシングドライバーは(彼の父親のサンドロはランチアのPR部長を務めていた)、60年代初めにHFスクアドラを設立、1965年には彼らのチームはランチアの正式なコンペティション部門に変貌していた(もっともその4年後にはランチアはフィアットに吸収合併されるのだが)。フィオリオ率いるチームは既に前輪駆動のフルヴィアによって大きな成功を収めていたが、彼は野心的な男であり、常に未来を見据えていた。彼の意見では、今後必要なのは一般市販車を改造したものではなく、最初からラリー用に設計された専用マシンだった。ベルトーネの野心的なショーモデルは、後にストラトスHFとして知られるラリー界初の真のスーパーカーの核心的価値を備えていたのである。

チェーザレ・フィオリオがいったいゼロのどこに"ラリー・ウェポン"の可能性を見出したのかは彼自身にしか分からない。後年フェラーリF1チームのボスとなる男はずっと後になってから、自分のアイディアが誰にも取り合ってもらえないことを恐れて、最初は口外しなかったことを認めている。ゼロの最大の特徴がドア兼用のウィンドスクリーンであることを考えればそれも当然というものだが、フィオリオの眼が正しかったことはラリーの歴史が証明している。もっとも、モータースポーツ史に輝く傑作マシーンに進化した事実を超えて、ゼロはそれ自体自動車として重要な意味を持ち、今なおデザイン界に影響を与えているのである。


この角度から眺めるととても車には見えない。ストラトス・ゼロは1970年代の保守的なジャーナリストからはほとんど評価されなかった

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