水上速度記録を4回も塗り替えた伝説のスピードボート|ブルーバードK3

ブルーバードK3

マルコム・キャンベル卿によって1938年に新たな水上速度記録を打ち立てたブルーバードK3。これは、そのボートが復活するまでの物語である

新記録を英国のものに
1938年は速度記録のオンパレードであった。1月にはルドルフ・カラツィオラがドイツのアウトバーンで258mphを記録。これは今日まで残る公道での最速記録である。3月にはドイツのめたテストパイロット、ハンス・ディータールがハインケル製戦闘機He100のプロトタイプで464mphを出し、飛行機の速度記録を更新。7月にはリンカーンシャーでA4パシフィック型マラードが蒸気機関車の最速記録126mphを樹立。そして9月には陸上速度記録がわずか3日間で2回も更新され、まずジョン・コブがレイルトン・スペシャルで350.2mphを、次にジョージ・アイストンが6輪のサンダーボルトで357.5mphを記録した。さらに同じ月に水上では、スピードキングのマルコム・キャンベル卿が航空エンジンを搭載したスピードボート、ブルーバードK3で、文字通り命知らずの130.91mphをスイスのハルヴィラー湖でたたき出したのだ。

地上速度記録を何度も塗り替えてきたキャンベルは、1935年にブルーバードVで史上初めて300mphを超え、新たな挑戦に目を向け始めた。当時の水上速度記録はアメリカのガー・ウッドが保有しており、愛国心の強いキャンベルは新記録を英国のものにしようと立ち上がる。だが水上の場合、速度が1.0075倍にならなければ新記録とは認められない。そのため、 1932年にウッドが作った124.86mphを破るために、キャンベルは125.80mphを出す必要があった。

ウッドのミスアメリカXは、スーパーチャージャー付き40.8リッターV12のパッカード製航空エンジンを4基搭載し、出力は各1600bhpだった。対してキャンベルは、37リッター2500bhpのロールス・ロイスRタイプV12エンジン1基にすることを選択。これは元々、1931年のシュナイダー・トロフィーでイギリスに総合優勝をもたらした水上飛行機スーパーマリーンS6用に開発されたもので、キャンベルがブルーバードVで300mphの壁を超えた時もこのエンジンを使用した。

キャンベルは、ブルーバードVのエンジンを搭載する船体として、23フィートのシングルステップ滑走艇をフレッド・クーパーにひそかに依頼した。クーパーは、かつて水上速度記録を作ったヘンリー・シーグレーブ卿のミス・イングランド号の設計者である。さらに、キャンベルの専属メカニック、レオ・ヴィラがエンジンを搭載する際は、ブルーバードVの設計者リード・レイルトンが監督した。

船体はワイト島カウズのサンダース・ロー社で製作され、同社の飛行艇と同じ2層式のマホガニー製だった。ほかにも飛行機と似た構造は、ドープ塗料を塗った航空用ファブリックで張ったデッキや、ミニチュア飛行船のような円錐形のテールにも見られた。Rタイプエンジンの出力はドグクラッチを通して船首近くのギアボックスへ送られるVドライブ方式で、ステップアップ比は1:3。ハンプシャーのハスラーにある海軍実験施設の最高責任者R.W.L.ゴーン博士が高速のスクリューをタンクでテストした。

1937年6月にローモンド湖でテスト走行が行われた。50代だったキャンベルは視力が衰えており、細く割いた布を岩から垂らして目印にした。スコットランドならではの悪天候で流木が湖に流れ出ており、しかもRタイプエンジンがオーバーヒートして90mphしか出せなかったものの、このときキャンベルはブルーバードなら記録を破れると確信する。ブルーバードは既にロイド船級協会でレーシングナンバーZ/K30を割り当てられていた。これが後に短縮されてK3になる。残る問題は、新記録に挑戦する場所だった。

メカニックのヴィラはイタリア系スイス人の家系で、かつてルガーノ湖で外輪汽船の船長をしていた祖父が、スイス・イタリア国境付近の湖畔なら山に囲まれており最適ではないかと提案したので、その地域にあるマッジョーレ湖で8月にテストを開始。しかし、 130mphでの走行は途中で断念せざるを得なかった。エンジンがひどいオーバーヒートを起こし、オーバーホールのためにダービーにあるロールス・ロイスの工場に送らなければならなくなったのだ。だが、パワーのやや落ちるスペアエンジンがまだ他にあった。まず水冷システムを改良して、スポイラーの役目をしていた飛行船のようなテールを取り外す。するとキャンベルは9月1日に記録を126.33mphに伸ばすことに成功。翌日にはさらに129.5mphを記録した。チームはウッドとの差をさらに広げようという意欲満々で、帰国すると翌年の計画を練り始めた。改良の目玉はテールデザイン。その形状は面白いことにブルックランズの最高速度記録を樹立したネイピア・レイルトンのテールに似ていた。今度はスイス北部アーガウ州のハルヴィラー湖を舞台に、キャンベルは自身の記録更新に向け準備を開始。チームにはキャンベルの友人であったピーター・デュケイン海軍中佐も同行した。デュケインは造船会社ヴォスパーで技術責任者を務め、王室船ヴィクトリア・アンド・アルバート号に積載するフォードV8エンジン3基搭載の高速ボートも設計していた。ブルーバードが高速時に見せるハンドリングに不安を感じたキャンベルは、130mph付近で起きる蛇行を修正する方法が何かないかとデュケインに助言を求めた。自ら高速走行を試したデュケインは、問題は解決不可能で、130mphを超えるのは危険だとキャンベルに忠告した。

それでもキャンベルは勇敢にも130.91mphという新記録を打ち立てた。こうして、キャンベル曰く「抑えの効かない"あばずれ"で、予測不可能」なブルーバードK3はお役御免となり、次の速度記録挑戦に向けて新たにブルーバードK4が発注された。今度は高速での安定性向上のため、ヴェントナー社が開発した新しいスリーポイント船型を採用。K4の設計も当初はフレッド・クーパーが行ったが、どちらも短気なキャンベルとクーパーが仲違いしたため、結局設計はデュケインによって完成され、ヴォスパー社が製作した。同じロールス・ロイスRタイプエンジンを搭載したK4は、 1939年8月19日、イギリスのコニストン湖で新記録の141.74mphを樹立。その3週間後に第二次世界大戦が勃発した。

戦後、キャンベルはK4を改良しターボジェットエンジンのデ・ハビランド・ゴブリンを搭載したが、これは不安定であることが判明した。この問題の解決を待たずに、キャンベルは1948年の大晦日に心臓発作でこの世を去ってしまう。63歳だった。息子のドナルドは父の挑戦を受け継ぎ、再びRタイプエンジンに戻した。さらにK4はプロップライド式に作り替えられたが、1951年にコニストン湖で走行中、170mphで浮き柵の支柱に激突し、沈んでしまった。引き上げられたボートは分解され、壊れた船体は焼却処分となった。

一方、K3は無用の長物と化していた。1940年代は北へ続く街道沿いの中古車置き場で"門番"を務め、その後は西へ向かう街道沿いにあったフォードのリンカーン子会社で防水布に包まれて保管。1980年代には、サリーにある遊園地ソープパークの子どもたちの遊び場で野晒しになっていた。


ブルーバードのRタイプエンジンを調べるマルコム・キャンベルと息子のドナルド

RECOMMENDEDおすすめの記事


RELATED関連する記事

RANKING人気の記事