美しく蘇ったフェラーリ 375 PLUSの栄光と没落の歴史

フェラーリ375PLUS

いくつかのスペシャルな"仕掛け"によって、このフェラーリは1950年代前半のモータースポーツシーンを支配することができた。なるほど、誰もがこのフェラーリを「プラス」と呼ぶことを厭わないのも頷ける

脅威のフォーナイン
過去60年を振り返ってみると、1954年は実に画期的な出来事に溢れていたことがわかる。例えば21歳だったメンフィスの若者がアーサー"ビッグボーイ"クルーダップの曲「That’sAll Right」をカバーした。あのエルヴィス・プレスリーのデビューだ。ビキニ環礁ではアメリカの「キャッスル作戦ブラボー実験」。15Mtの水爆実験が行われ、史上最大の威力を示し、ベトナムにいたフランス軍が55日間に渡る包囲戦の後、ディエン・ビエン・フーで降伏した。イギリスのガソリン価格は1ガロンあたり20ペンス。モーターレースの世界では、F1のエンジンレギュレーションが2.5リッター自然吸気エンジンへ変更され、ジャガーが第二回FIAスポーツカー世界選手権で、ランチアとフェラーリと戦った……。

さてイタリアでは、2シーズンを完全に制覇したフェラーリチームが瀬戸際に追い詰められるであろうことに、エンツォ・フェラーリが気付いたときである。フェラーリはメルセデス・ベンツやランチアの8気筒エンジンを搭載した最新式F1用モデルにも、マセラティの6気筒250Fにすら対抗することができなかった。その代わりに、エンツォ・フェラーリは市販の大排気量スポーツレーシングカーの開発に技術力を集中させたのだ。

量産用4.5リッターフェラーリ375ミッレ・ミリアは、4.1リッター340アメリカモデルシリーズをベースにしたV12エンジンを使用することとなった。340タイプのストロークは68mmそのままだったが、ボア径を84mmへとアップし、総排気量4,522㏄を得た。出力は7,000回転で340bhp。エンジンは4速ギアボックスと共にフロントに搭載され、フロントに重心を置き、リブアクスルと燃料タンクのみが後方に配置された。ボディデザインの担当はピニンファリーナが勝ち取った。

一方、エンツォ・フェラーリは、レーシングカーモデルの宣伝用に、そしてワールドタイトルを奪取するためのモデルとして、さらに大きな排気量のスパイダーを少量生産することにした。デザインオフィス「Ing」ではアウレリオ・ランプレディと彼の部下たちが、大成功を収めた4.5リッターF1V12エンジンを改良し、ウェットシリンダーライナーをねじ込み、ボア径を375MM同様84mmへとアップさせた。そしてこれを、以前のF1ストローク74.5mmと組み合わせ4,954㏄を得た。後に「The FearsomeFour-Nine(脅威のフォーナイン)」と呼ばれることとなる375プラスの誕生だ。

この強大なV12エンジンには、量産モデル375MMと異なる2つの大きな特徴がある。ひとつはギアボックスとファイナルドライブを一体化しリアに搭載したF1スタイル、もうひとつはリブアクスルに代わりド・ディオン式リアサスペンションを採用したことだ。最高出力、6000回転で330bhpを誇るこのワークスチーム用に生産された車は5台で、偶数の車台番号0384、0386、0392、0396、0398。番号の後ろにはアメリカの"AM"が付けられた。



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