美しく蘇ったフェラーリ 375 PLUSの栄光と没落の歴史

フェラーリ375PLUS



次に375プラスが参戦したのはル・マン24時間レースだった。マリオーリとパオロ・マルゾットがチームを組み、シルバーストーン優勝車「0384AM」で、ゴンザレス/モーリス・トランティニアン組と、ルイ・ロジェ/ロベール・マンゾン組はその兄弟車の「フォーナイン」で挑んだ。2時間後、ゴンザレス/トランティニアンの375プラスがトップを走り、後ろにはマルゾット/マリオーリ、そして3位にはスターリング・モス/ピーター・ウォーカーのジャガーDタイプが続いていた。やがてジャガーのチームに様々な問題が起こると、フェラーリチームはレースを完全に支配するようになる。4時間後にはフェラーリ375プラスのトリオがゴンザレス、マルゾット、ロベール・マンゾンの順に1-3位を占めた。

フェラーリの独走状態は7時間後、マルゾット/マリオーリの「0384AM」のギアボックスが突然故障し、リタイアするまで続いた。ロジェ/マンゾンの375プラスもまたギアボックスの不具合により屈することとなるが、ゴンザレス/トランティニアンは、トニー・ロルト/ダンカン・ハミルトンのジャガーDタイプとの戦いを繰り広げ、最後にはフェラーリがセンセーショナルな勝利を飾った。この巨大で、荒々しいバリトン375プラスがスポーツカーレース最大のタイトルを勝ち取ったのだ。

だが、「脅威のフォーナイン」がこのスペックでレースを走ることはもうなかった。アメリカでフェラーリの代理店を務めていたルイジ・キネッティがこのレース用モデルを購入してくれる顧客を探すため、1954年、最終ラウンドとなったカレラ・パナメリカーナ・メヒコに間接的な資金提供を行う話を取り付けたのだ。フェラーリ氏は同意し、ウンベルト・マリオーリに375プラスを運転させることにした。

マリオーリは、ロジェ/マンゾンがル・マンで駆った0392AMを使用することとなった。キネッティがアメリカのオーナー兼ドライバーである、ゴールドシュミットに販売する手筈を整えた車だった。ル・マンのウィニングカー、375プラス0396Mはジョン・エドガーが購入し、アメリカのレーシングドライバー、ジャック・マカフィーに委ねカレラに参戦することとなった。マリオーリの車には標準の12プラグに代わり、24本のスパークプラグが取り付けられ、排気量は4.9リッターから約5.1リッターへと僅かに拡大された。

レースが始まって間もなく、マカフィーは激しくクラッシュ。無傷で逃げ出すことに成功したものの、同乗していたフォード・ロビンソンが不幸にも命を落とす結果となった。パラルからチワワの186マイル間をマリオーリは1時間24分58秒、平均127mphという圧倒的な速さで走り抜けた。全体ではマリオーリはこのメキシコの公道1,908マイルをたったの17時間40分26秒、平均時速107.96mphで完走した。

フェラーリがこの巨大な「プラス」を1954年のシーズン終わりまでに、いかに仕上げてきたか、この驚くべきパフォーマンスが表していると言えよう。マリオーリがミッレ・ミリアで、ゴンザレスがシルバーストーンで勝利を得た「0384AM」は、キネッティを介してキンバリークラーク社「クリネックス」の億万長者、ジム・キンバリーが買い取った。1955年2月、キンバリーはデイトナビーチで2位に、その6日後、フロリダ州フォートピアスで行われたレースでも再び2位を獲得した。1955年のセブリング12時間レースに参戦し、リタイアした後、オハイオ州シンシナティのキャデラックディーラーである、友人のハワード・ハイヴリーに車を譲った。ハイヴリーはこの「0384」で6月、 7月と立て続けに勝利を挙げた。その後もいくつかのレースに参戦した後、ハイヴリーは、インディのスター、トロイ・ラットマンと共に1956年のセブリング12時間レースに望むが、ギアボックスのトラブルに見舞われる。1957年2月25日にはホワイト、ブルー、レッドと鮮やかに塗装したプラスでキューバグランプリに参戦したが、コクピットの配線が焼け、そして、この車が再びレースに姿を現わすことはなくなった。


1954年のル・マン24時間レース。3号車に乗っているのはパオロ・マルゾット。フェラーリチームは完全にレースを支配するようになり、375プラスのトリオが、ゴンザレス、マルゾット、マンゾンの順で1-3位を独占した

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