BMWー青と白のエンブレムの半世紀|Jack Yamaguchi’s AUTO SPEAK Vol.3

BMW507

BMWに最初に遭遇したのは、1950年代半ば、米空軍横田基地で開催されたドラッグレースであった。当時の日本は不況、就職難期で、私は生計と自動車に乗る機会のある仕事として極東空軍司令部自動車輸送中隊の通訳となった。

中隊長交替で赴任した上司大尉は、インポーターに委託してチューンさせたBMW・R69モーターサイクルを所有し、ドラッグレースに出場していた。彼が私をレースに誘ったのは、同好者であるとともに、魂胆があった。東京の輸入商社にBMW本社から派遣されてきた自動車部長ヘルマン・リンナーにアシスタント探しを頼まれていたのだ。大尉いわく、「われわれの米軍の駐留もそう長くはない(まだいるが)。そろそろ将来を考えた仕事をやってはどうか」

かくして、1958〜59年の間、部長アシスタントの名のもとで、小所帯ゆえに"何でも屋"をやった。その中に、販売拡張を意図した浅間モーターサイクルレースへ参加するチーム活動の裏方があった。望月修(ヤマハ、のちに三菱)、伊藤史朗(ヤマハ)をBMWに、新人の高橋国光を英車BSAライダーとして契約した。

1959年の浅間に向け、排気量無制限国際クラスを走る伊藤用としてドイツに注文したものの、本戦に間に合わなかった"秘密武器"部品があった。7年後、1966年、富士スピードウェイで開催される二輪レースイベントの主催者から、『本邦最初』のサイドカーレースを加えたいとの依頼があり、そこにのったのが、友人のBMW販売店主と私だった。秘蔵のアルミシリンダーをはじめ、レーシングパーツを組み込んだクルマを製作して出場した。

サイドカーレースのプラクティスでは、日本GPに向けたトヨタ2000GTのシェイクダウンに来ていた河野二郎主査・第7技術部長の目の前でバランスを失い落車し、爆笑を買う珍事もあった。なんとか優勝はしたが、以後レースは断念した。

インポーター勤務の時期、私はBMWの技術と精度には感嘆を禁じ得なかった。英車BSAは、高橋国光用特注ゴールドスターの高性能以外は、来るべき英メーカー群の凋落を予感させるレベルだった。

一方、BMW自体は、経営危機の真っただ中にあった。自動車は少数生産高級車の500シリーズと"バブル(泡)カー"超小型車イセッタなる両極端ラインアップ。日本では、乗用車輸入は基本的に禁止、国際見本市展示、日本メーカー団体研究用以外は入ってこない。それでも、駐留米軍人と家族に40台のイセッタを販売した。今も日本で散見する、メッキ鉄パイプ製バンパーをつけた"USスペック"だ。

直列6気筒搭載の501(このエンジンは戦前の設計で、英ブリストル社が自社ブランドおよび英小スペシャリストカーに供給)、V8エンジン搭載の502をドイツ外交官用に輸入し、1年落ちの501が社用車としてあった。楕円断面梯子形フレーム、前後トーションバーばね、前ダブルウィッシュボーン、後リジッド式サスペンションを備えた流線形デザインのクルマで、堅固感ある車体、滑らかなエンジンという記憶がある。

日本の土(地方道路は大半ダート)を踏ませたかったが、果たせなかったのが最高級高性能ロードスターの507であった。502セダンのシャシーを短縮し、OHV3.2L V8をチューンして搭載、ほとんど手造りの流麗なアルミボデイを架装し、着脱ハードトップも設定された。

ある日、米軍将官級軍属から「購入に興味がある。説明に来て欲しい」と連絡を受けて、市ヶ谷の旧日本軍大本営、当時の米軍幹部将校軍属宿舎に赴いた。そこで、彼から競争相手があると聞かされた。メルセデス・ベンツ300SLである。300SLのレーシングカーから派生した先端技術と性能に負けた。

しかし、507の官能美には魅せられた。後日、日産のデザインコンサルタント(初代シルビア)として頻繁に来日していたドイツ系デザイナー、アルブレヒト・グラフ・フォン・ガーツの知己を得た。彼をニューヨーク東36番街のスタジオに訪れ、その足で彼とともに507を熱愛する富豪が所有する3台の507に乗ろうと、中西部の地方空港に飛んだ。

イセッタの発展型ともいうべき600の日本導入も私が手掛けた(数台だけの見本市、研究用だが)。600は前面1枚、後右1枚ドアを持つ4人乗り、水平対向2気筒リアエンジン車だ。600について鮮明に記憶しているのは、『モーターファン』誌が行う、大学の研究室が行う計測と学識権威者によるロードテストである。戦後、トヨタ乗用車開発の礎を作り、その後に副社長となり、引退されてからクマベ研究所を設立された隈部一郎博士が評価座談会座長であった。平尾収、亘理厚、近藤政市教授、宮本晃男運輸省自動車課長らがキラ星のごとく並ぶ前で、メーカー側の説明をするのは心に怖い体験であった。

次の"自動車らしい形"の小型車、700の導入準備を手掛けて、インポーターを辞めた。700こそ、BMWの自動車メーカー再興の足がかりとなったクルマだ。仕掛け人は、製品企画ディレクターのハルムート・ベンシュだ。私が1968年に初めてミュンヘンを訪れた時は、すでに現役を退いていたが、BMW社史と2、4輪、そして創成期から第二次大戦までの航空エンジンの技術語り部であった。一時期、彼が手掛けたリアエンジン車の"1000"は、プロトタイプ製作まで行った。だが、これを諦め、成功作"ノイエクラッセ"1500に舵を切ったのは正解であった。

ベンシュの勧めで観戦したのが、1968年ロスフェルト・ヒルクライムであった。BMWは、4バルブを放射状に配した"アッフェルベック・ヘッド"、英語短縮"アップル(リンゴ)ヘッド"と呼ぶDOHC4バルブ直列4気筒エンジンを搭載したローラ・ベースのレーシングカーで"山の王者"ポルシェに挑んでいた。このエンジンは、フォン・ファルケンハウゼンが手掛けた名エンジン、M10をベースとしていたが、速いものの、複雑なバルブ機構ゆえの信頼性欠如に悩んでいた。

1973年のミュンヘン取材では、マーケティング担当役員ボブ・ラッツ、エンジン設計部長アレックス・フォン・ファルケンハウゼン、Mワークス前身モータースポ―ツ部長ヨッヘン・ニアパッシュ、R90Sデザイナーのハンス・ムートの話を聞いた。ラッツの口利きで、2002ターボ、3.0CSL、R90Sに試乗できた。広報部員は、3.0CSLについては口ごもったが(さるライターが高速クラッシュさせた)、ラッツの「うちの部のクルマがあったろう」の一言で乗ることができた。

GM出身のラッツは、BMW後、フォード・ヨーロッパ社長、クライスラー社長、GM副会長を歴任した名うてのカーガイである。

モーターサイクルでは、2012年までデザインを指揮したミュンヘンのアメリカ人のひとりがデイヴィド・ロブだ(同時期の自動車デザインディレクターは、クリス・バングル)。

新型120ターボの発表で来日したBMW動力性能評価部長のアルベルト・ロペツ博士には、その後ドイツ新世代3気筒エンジン・プロト試乗会で再会したが、その時、ロペツ博士との会話で出てきたのが第二次大戦中のドイツ空軍機主力エンジンのひとつ、BMW801dだった。星型14気筒空冷エンジンだが、エンジン前面とプロペラ間に冷却ファンを設けている。半世紀前、ヘルムート・ベンシュが語り、大戦中、英ブリストル航空エンジン技術者であったクラシックミニなどのサスペンション開発者、アレックス・モールトンが「敵ながらあっぱれ」と賞賛したのが青と白、空とプロペラ象徴エンジン、801dであった。


1 BMW507の美しさ
インポーター時期、日本輸入が果たせなかった。1959年に生産終了までに252台+プロたのがBMW 507だ。アメリカの市場拡大とト2台が製作されたにとどまる。2014年3月ブランド向上のため、502セダン用シャシーのフロリダ・アメリカ島で開催されたグッデを切り詰め、当時でもっとも官能的と言われィング社オークションでは、1台が180万ドた2シーターボディを架装したロードスタールで落札され、翌日のRM社オークションでである。エンジンはOHV3.2L V8。1956年は、他の1台が240万ドルをつけた。これはに販売開始したが、職人芸手叩きボディがBMWのミュンヘン・ウォルト・ミュージア計画価格の5000ドルを倍増させてしまっムに展示されているもの(photo=JKY)。

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