フェラーリ創業当時を解き明かすヒントとなるダークホース|166インター・スパイダーコルサ

Photography:Charlie Magee



166スパイダーコルサ"012I"
ここに紹介する166"012I"のボディはトゥーリングのデザインに似ているがトゥーリング製ではなく、後に架装されたものだ。"012I"が完成したのは1948年5月のことで、ボディはカロッツェリア・アンサローニの手になるサイクルフェンダーを備えた"シルーロ"だった。ワークスカーとして使われることになり、5月のバーリ・グランプリ(訳註:バーリはアドリア海に面した南イタリア)にフェルディナンド・リゲッティのドライブでデビューを果たすものの、完走はできなかった。4度目の出走となった8月のペスカーラ・グランプリでは、ブルーノ・ステルツィ伯爵によって 2位を獲得している。勝者はマセラティA6GCSに乗ったジョヴァンニ・ブラッコだったが、彼はフェラーリのワークスカードライバーも務めており、"012I"のヒストリーで重要な役割を果たす。デビューシーズンにさらに好成績を重ねた"012I"は、1回目となるエンジン交換を経て、翌1949年シーズンを前にしてジョヴァンニ・ブラッコの手に渡った。ブラッコはピエモンテ州出身の華やかな人物で、1952年のミッレミリアの優勝者として知られている(このときは大量のブランデー煽りながら走りぬいたという逸話がある)。

ブラッコは買ったばかりの166"012I"を駆り、1949年の国内ヒルクライムでは全戦で表彰台に立つという好成績を収めてチャンピオンの座を獲得した。だが、166は神経質で乗りこなしにくいと評判になり、「イル・キオード・ディ・ブラッコ」(ブラッコの釘)、略して「キオード」(伊語で釘の意)という不名誉なあだ名を授けられた。

ブラッコは1949年3月のジーロ・デ・シチリアと4月のミッレミリアに、のちにカレラ・パナメリカーナで優勝するウンベルト・マリオーリと組んで出走した。1949年シーズン後に"キオード"は再び別のオーナーの手に渡る。

パオロ・フォンタナ製のボディを架装
新しいオーナーとなったのは、フェラーリ成長期において欠かせない名前、ヴィットリオ・エマニュエレ・マルゾット伯爵であった。スクーデリア・マルゾットはフェラーリで長くレースに参戦し、輝かしい成績を刻んでいくが、最初の1台がこの"012I"であった。ヴィットリオは織物業界の大物ガエタノ・マルゾットの息子で、4人兄弟はいずれもレーシングドライバーだった。ヴィチェンツァで"VI18132"のナンバープレートを取得すると、さっそく改造に取りかかった。

当時、マルゾット兄弟は、風変わりなボディのフェラーリを何台も所有していることで有名だった。アルフレード・ヴィニャーレによる衝撃的な212ロードスター、見た目は少し劣るがカロッツェリア・フォンタナ製の意欲作、ウォーヴォ(卵)、ステーションワゴンのカレット・シチリアーノ(シチリア手押し車の意)などだ。パオロ・フォンタナは実質マルゾット家のお抱えデザイナーとなり、パドヴァにあったフォンタナの工場の初仕事が"012I"の新しいボディ架装だった。これが、今日までほぼ無傷で残っているボディだ。

こうして1950年4月にタルガ・フローリオに参戦したジャンニーノ・マルゾットとマルコ・クロザーラだったが、事故に遭遇したライバルのファブリツィオ・セレナ・ディ・ラピージョを救うためにレースを途中で棄権した。このレースと次のミッレミリアには、"195S"あるいは"195Sバルケッタ・フォンタナ"としてエントリーしている。195とあるのは排気量を2300cc級に拡大したことを示している。

1950年ミッレミリアではマルゾットとボディを造ったフォンタナが組み、"012I"は会心の走りを見せ、総合9位でフィニッシュした。このときのカーナンバーが今付けている"722"(スタートが7時22分の意)である。奇しくもこの5年後のミッレミリアでスターリング・モスが付けて伝説となったカーナンバーだ。さらにこのシーズンはヒルクライムでも勝利を重ねた。翌1951年にはボディにモディファイが施され、ファストバック型のハードトップとそれに合わせたフロントガラス、外側にもドアハンドルが加わり、色はシルバーに変わった。

車齢を重ねた"012I"だが、国内戦レベルではまだまだ競争力を保っていた。2080ccの" 175"(?)エンジンに交換すると、その年のジロ・デ・カラブリアでカルロとグイドのマンチーニ兄弟によって3位フィニッシュを果たす。その年の締めくりはモデナ・グランプリで、"パンパス・ブル"の異名を持つフロイラン・ゴンザレスによって総合6位に輝いた。

1952年に入っても"012I"キオードは現役だった。シラクサGPではフランコ・コモッティによって6位を獲得(完走が少なく最下位)した。同年限りでスクーデリア・マルゾットは活動を終え、キオードは元アルファのレーシングドライバーだったマルティーノ・セヴェリの手に渡り、その後ローマの富豪の元を転々とする。その1人、フランチェスコ・マトルーロによって、1955年にタルガ・フローリオに参戦。これがこの時代で記録に残る最後の出走である。このときまでに"012I"はホイールベースが約150mm短くなっていた。


現在のフォンタナ製ボディのデザインは有名なカロッツェリア・トゥーリングのバルケッタと通じる部分が多い。工場出荷時のボディはアンサローニ作のシルーロだった

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編集翻訳:伊東 和彦(Mobi-curators Labo.)Transcreation:Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下 恵 Translation:Megumi KINOSHITA Words:Richard Heseltine

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