言い尽くせない魅力がそこにある。|フェラーリ275GTBコンペティツィオーネ

疾走する275GTB/C。Cはコンペティツィオーネの意味。美しいサイドビューにスクーデリア・フィリピネッティの文字が映える広いキャビンは仕立ても素晴らしい。細いAピラーと広いグラスエリアのおかげで視界も良好だ



"09079"が歩んだ足跡
今回乗ったシャシーナンバー09079のGTB/Cは、上記した12台のうち11番目の個体である。スイスの有名なフェラーリ研究家、マルセル・マッシーニの記録によれば、最初の納車先はスクーデリア・フィリピネッティとある。スクーデリア・フィリピネッティは今日では知る人ぞ知る存在だが、1960年代のモーターシーンにおいては重要な位置を占めていた。マラネロやシュツットガルト、さらには南カリフォルニアにおいても車の整備に関して右に出る者がいない存在といってよい。それほどまでに評判を高めたのはそのボス、ジョルジュ・フィリピネッティの人柄にあったというべきだろう。

常にエレガントな彼はサーキットのピットにも仕立てのよいスーツ姿で現われた。スイス人のフィリピネッティは発電機の事業を営んでいたのだが、重電の国スイスではちょっと名の知れた人物なのであった。「彼のモータースポーツへの情熱は取りも直さず、レーシングチームを立ち上げることだった」とはエド・ヒューヴィンク著『スクーデリア・フィリピネッティ』のイントロ部分で耐久レースの王者ポール・フレールが語った言葉である。「そのためなら彼は何でもした。速い車があれば買い、ベストなコンディションで走らせる努力も惜しまなかった。最良のメカニックを雇い、最速のドライバーをスカウトした」

"何事にも最善を尽くす"、これがフィリピネッティの身上であった。彼はやがてフェラーリのディストリビューターを担うことになるが、同時にライバルであるシェルビーアメリカンやランボルギーニも扱っていた。この事実は、いかに彼が尊敬に値する人物であるかを物語るものである。「リスペクトを感じる人間は私が会ったなかでも数えるほどしかいない」と語るキャロル・シェルビーは先の書物に「彼は伝統的なジェントルマンというだけでなく、自分の人生を他人のために捧げられる人なんだ」という一文を寄せている。

フィリピネッティは1966年10月にGTB/C"09079"のデリバリーを受けると、翌年のル・マン出場のためにフォグランプを追加装備した。67年のル・マンには同チームからGT40とフェラーリ412Pも参加した。GTB/Cをドライブするのはディーター・スポエリーと、スイス人モータージャーナリスト、リコ・シュタイネマンである。リコは68年のル・マンで総合2位に入るほどの腕前の持ち主であるとともに、30歳になった69年にはポルシェ・ファクトリーのチームマネジャーとして迎えられるオールマイティーな実力者だ。フィリピネッティでチームを統括するのは以前フェラーリとマセラティでチームマネジャーを務めたことのある"マエストロ"ネロ・ウゴリーニ、チーフメカニックにはフランコ・スバッロが就いた。


1967年ル・マンでGTクラスを勝ち取って喜ぶディーター・スポエリー(左)とリコ・シュタイネマン


1969年のスパ1000kmを走る2番目のオーナー、ジャック・レイは総合14位入賞、GTの2000-3000ccクラスでは1位を得た


編集翻訳:尾澤英彦 Transcreation:Hidehiko OZAWA Words:Winston Goodfellow Photography:Pawel Litwinkski

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