とんでもなく手に余る航空エンジン搭載の「悪魔」フィアット・メフィストフェレス

Photography: Andrew Crowley

速度記録を樹立した航空エンジン搭載の1923年フィアットには、『ファウスト』に登場する悪魔の名前がついている。並の神経の持ち主はステアリングを握ることができない。

メフィストフェレスの名前は伊達ではない。この真っ赤な大型のフィアットは、さながら悪魔に魂を売ったかのようだ。エグゾーストからはすさまじい量の煙を吐き、炎まで吹き出す。周囲はグワングワン、ガタガタガタ、ブオーンといった騒音で満たされ、さながら地獄の様相だ。

私が座っているのは、1924年7月12日に、眼鏡をかけた大柄なアーネスト・エルドリッジが座っていたシートである。濃い排ガスの靄に包まれながら、エルドリッジと同じように発進の時を待っている。90年前のその日、この恐るべきマシンが鼻先を向けていたのは、パリから約18マイルのところにあるアルパジョンのルート・ドルレアンだ。そこは両側を並木が続く未舗装の狭い街道で、ここで1kmでの速度記録を賭けた最後の走行に臨んだのだ。それが一般道での最後の記録となった。

320bhpの最高出力を発揮する2万1700ccの航空エンジンが80kgのフライホイールを回すと、アルミ製のダッシュボード上で巨大なレブカウンターの針が勢いよく振れる。ガタガタと震えるボンネットの下には制御のきかない生き物が隠れているようだ。コクピットの中で木製でないのはこのダッシュボードだけである。この車は、どこもかしこも木でできており、それがオイルと歳月で美しく磨き上げられている。フロアは厚板で、エンジン後方のファイアウォールも、ボンネットが載っているガイドも木製なら、全長5mのシャシーを補強しているのも木材だ。シャシーを延長する際には、ロンドンの路線バスからパーツを取ったという伝説もある。すべてスマートなアルミニウムのボディワークに包まれているが、その表面は、波乱の人生を生き抜いてきた老人の顔さながらで、傷やへこみ、焦げ痕や汚れなどで覆われている。

広いコクピットの外側にはスチール製のギアレバーが突き出しており、これで4段のギアボックス(リバースはない)を操作する。強大なトルクはセンターデフを介して2本のレイノルズ製ドライブチェーンへと伝わり、それぞれに後輪を回す仕組みだ。メフィストフェレスは走った場所に自分が来たことを知らせるマークを残していく。

ボディ側面を走るシングル・エグゾーストパイプからは熱と煙が漏れ出し、トータルロス(垂れ流し)式のクラッチオイルも路面にしたたる。おまけに冷却液とオイルが混じり合って乳化したものは、フロア下のオイルパンにたまって発進と同時に流れ落ちる。

二度の大戦の間に造られたモンスターマシンの目的は、大衆にスリルを味わわせ、レースをし、記録を更新することだった。乗り込むドライバーとそれ以上に勇敢な同乗メカニックは、スピードの新たな高みを経験したばかりか、一歩誤れば、実際に空へと舞い上がることも少なくなかった。当時のダンパーは原始的なフリクション(摩擦)式であり、路面が平坦ではなかったブルックランズのバンクでは、車ごとはじき飛ばされてしまうことがあった。ビル・ボディが著した『Aero-engined racing carsatBrooklands』という書籍で、エルドリッジの同乗メカニックだったジム・エイムスがその恐ろしさを筆者に語っている。必死にしがみつきながら、燃料タンクをポンプで加圧し、同時に酸素ボンベのバルブを開いてインテークに補充したというのだ。


2トン近い車重、2万1700ccの直列6気筒エンジン、そして恐ろしい爆音。悪魔の名前を授かったのも当然だ

もっと写真を見る

編集翻訳:伊東 和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation: Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下 恵 Translation: Megumi KINOSHITA Words: Andrew English 

無料メールマガジン登録   人気の記事や編集部おすすめ記事を配信         
登録することで、会員規約に同意したものとみなされます。

RECOMMENDEDおすすめの記事


RELATED関連する記事

RANKING人気の記事