とんでもなく手に余る航空エンジン搭載の「悪魔」フィアット・メフィストフェレス

Photography: Andrew Crowley



記録挑戦
速度記録への挑戦は対戦形式で行われ、相手は350bhpのV12ドラージュを駆るルネ・トーマだった。エルドリッジは最初、リバースギアがないことに足をすくわれている。メフィストフェレスは若馬のように跳ねたり蛇行したりしながら計測区間に突進していったのだが、トーマは相手が自分より速いと見ると、リバースギアが付いていないから無効だと訴えたのである。仕方なくエルドリッジはフランスの作業場で即席のものを取り付け、再度の挑戦で1kmの平均速度146.01mph(約234.97km/h)という新記録をたたき出した。

今でこそ、ロードカーでも出すことのできる速度だが、メフィストフェレスが原始的な車であることを忘れてはならない。後輪がスピンと横滑りを交互に繰り返し、直進しようとしても蛇行は避けられない。唯一、存命しているメフィストフェレスの公式ドライバーであるミケーレ・ルチェンテは、この怪物で100mph(161km/h)を超えたことがあるという。どんな感じだったのか聞いてみた。

「覚えていない。ステアリングやギアを操作したりブレーキングポイントを探したりすることで精一杯で、どんな感じか味わう時間なんてなかった。車から降りると、手がね、震えているんだ」とルチェンテは語っている。なるほど。ちょっと肩すかしを食った気分ではあるが。

モンスターとのダンス
私の後ろから、足を引きずる音や歯を食いしばる気配が聞こえてくる。ジャンフランコ・ダツィア(メフィストフェレスのチーフメカニック)とラファエレ・テリッツィ(フィアットの自動車博物館館長)が、1.78トンのメフィストフェレスを押しているのだ。クラッチにかかる力を減らすためである。私はがっしりした作りのギアレバーに力を込めた。ストレートカットのギアがギギィ、ガリガリガリと鳴き、ギアが噛み合った。クラッチをゆるめ、いよいよ発進。

こうした戦前のモンスターマシンは、たいていトルクは太いが、立ち上がりが弱いので、最初の加速は案外鈍い。エンジンの効率が悪いからだ。このフィアットの圧縮比はわずか4.8:1で、8cmのホワイトメタル・ベアリングが重さ100kgのクランクシャフトを支えるのだから、内部摩擦は現代のものに比べて膨大であろう。それでも、小型のアルファロメオのように元気に回転が上下し、力を解放したくてウズウズしているようだ。

運転には芸術的かつ高い技量が要求される。ペダルがコクピット右側に詰め込まれており、すぐ脇に華奢な点火時期調整装置があるので、これに触ってしまいそうになる。靴を脱いで靴下で運転したのは正解だったと思ったのも束の間、巨大なエンジンが発する熱でつま先が熱くなってきた。

ルチェンテの言葉通りだった。最初の数メートルは、ギアやら回転数やらに煙も加わって、私は混乱状態に陥った。ノイズも気が遠くなりそうなほど大きい。2速に入れたくても、メインシャフトにわずかな歪みがあるため、渾身の力を込めてギアレバーを叩き込まないと入らない。エンジンはガタガタと踊り回り、大量の煙を吐き出す。フィアットは2011年にハイテクな2気筒エンジン(ツインエア)で"Engine of the year"を獲得したが、その二酸化炭素排出量は1km当たりわずか85gである。対してメフィストフェレスは3200g/kmも吐き出す。炭化水素や一酸化炭素、窒素酸化物も相当なものだ。

3速にアップすると、いよいよ悪魔が本領を発揮し始めた。滑らかな路面にもかかわらずフロントタイヤがぐらぐらし、ギアのきしみと打ち付ける風の音に、オープンバルブギアからの耳をつんざく轟音が加わる。80mph(約129km/h)では、天に向かって反逆を告げるかのような咆哮となった。外のハンドブレーキに手を伸ばし、四苦八苦しながら減速してUターンする。ウォーム・スクリュー式のステアリングは重いが、操縦不可能なほどではない。だが、こうしたモンスターのハンドリングに常識は通用しない。体全体でステアリングを回し、ロックするまで素早く切る。荷重移動のタイミングを利用して、キングピンに荷重がかかる前に方向を変えるのだ。だが、このフィアットはその大きさと重さを忘れさせる機敏な動きを見せた。

今度は往路で撒き散らしたスモークの中を戻る。メフィストフェレスの速さは、同時代のライバルとはまったく異質のものだ。ルチェンテは、中速域ではラリーカー並みに速いと話すが、私も同感だ。スロットルペダルに力が入る。このまま走り続けてストレートエンド向こう側の奈落へ飛び込めと悪魔がささやくのだ。ピットに戻ろうとしたが、スロットルを戻すタイミングが遅すぎたようだった。エンジンブレーキで耳をつんざくノイズが巻き起こり、チェーンが打ち付け、ギアやエンジンはガタガタ、バンバンと鳴り響く。まるで冥界の扉が開いたかのような騒ぎになった。タイヤがロックして路面を滑り、あやうくピットクルーとその車をなぎ倒す手前でようやく停止。全員から一斉に安堵のため息がもれた。

マグネトーのスイッチを切ってエンジンが止まると、天国のような静けさが訪れた。だが、コクピットの中でカタカタカタ…とかすかな音がする。自分の手が震え、腕時計がステアリングに当たって音を立てていたのだ。悪魔とのダンスは、肝の据わった人間にしかできない。ルチェンテの勇気はまさに勲章ものだ。


現役当時は最高速度146mphを出して速度記録を更新した。タイヤのトレッド剥離は日常茶飯事だった

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悪魔のエンジンを搭載するまでの経歴

編集翻訳:伊東 和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation: Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下 恵 Translation: Megumi KINOSHITA Words: Andrew English 

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