アメリカの「歴史遺産」という栄誉を得たシェルビー・コブラ・デイトナの数奇な運命

シェルビー・コブラ・デイトナ・クーペ(Photography: Michael Furman)



ターニングポイントはシェルビーが、テストドライバー兼レーシングドライバーとしてケン・マイルズと契約したときにやってきた。彼は空力に大変興味を持った。「もしケンに話をしなかったら、この車は平凡なままで終わっていたでしょう。私にはマイルズがとても実践的なエンジニアで、しかも速く、頭のいいドライブをする人だとわかっていました」

ピートは著書『デイトナ・コブラ・クーペ』でこう書いている。「私が完璧な機械図面を描かなかったのは、完全なものがあるとマイルズからの意見が出なくなると思ったからだ」

シャシーナンバーCSX2287がACから届くと、マイルズとジョン・オルセンが改造にとりかかった。ブロックも平行して仕事を進めた。1963年11月の終わりに、シャシーは数マイル離れたカリフォルニア・メタルシェービング社に運ばれた。そこで作られていたアルミニウムのボディパネルとシャシーが合体して車は出来上がった。きらきらと光り輝く車を見たスタッフたちはそのとき一丸となった。

ゴミ同然の車が輝きを放った日
1964年2月1日、テストチームはリバーサイド・レースウェイに車を持っていき、2時間以上を走行した。マイルズはそれまでのコブラのラップレコードを3.5秒以上縮める走りを見せた。車はアルミニウムむき出しの状態でパセンジャーシートもなかったが、初走行としては上々の結果だった。二度めのテストはフロリダまで足を伸ばして、2月16日のデイトナ2000kmレースに参加させた。CSX2287はフェラーリGTOがピットストップしたのに乗じてポジションを奪い、いきなり首位に躍り出た。シェルビーの車は4周の間リードを保ったが、レース開始から7時間めにピットストップした際に起こした火災が原因でリタイアした。

1カ月後のセブリングではもっと結果はよかった。CSX2287は総合4位でフィニッシュし、GTクラスではトップの成績を収めたのである。その後念願のヨーロッパに渡り、5つのレースを戦い、一度は10位以内でフィニッシュした。

デイトナ・クーペは5台以上が作られたが、皮肉にもそれらはカリフォルニアで組み上げられたものではなく、フェラーリからほど近いモデナのカロッツェリア、グランスポルトで作られたものだった。2287と5台のデイトナ・クーペは1964年のFIAワールドチャンピオンシップに的を絞って戦ったが叶わず、しかし翌65年には見事王座を獲得した。

1965年のル・マンを戦ったあと2287は(4位を走っていたが完走ならず)南カリフォルニアに戻されたが、チームはフォードGT40のチューニングに没頭しており、2287は航空機の格納庫に運ばれてゴミ同然の扱いとされた。誰かの気まぐれで第二の人生が始まるまで。

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編集翻訳:尾澤英彦 Transcreation: Hidehiko OZAWA Words: Winston Goodfellow 

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