行方不明だった名車「ランチア・アウレリア」が発見され、往年の輝きを取り戻すまで

Photography:Ashley Border, Simon Clay, Paul Harmer

ミッレミリア、ル・マン、そしてカレラ・パナメリカーナに出場したという輝かしいヒストリーを刻んだランチア・アウレリアB20GT。長く行方不明だった幻の1台が甦った。

輝かしい戦績
私たちの目の前にあるのは、490台製造されたアウレリアB20GT初代シリーズの10台目。ほぼ生産ラインから1951年のミッレミリアに直行したというヒストリーを持つ。ミッレミリアでステアリングを握ったのは、この車のオーナーで、ファクトリーからのサポートを受けるプライベートドライバー、ジョヴァンニ・ブラッコだった。彼はウンベルト・マリオーリと組み、総合2位という好成績でフィニッシュを果たした。唯一、敗れた相手は、ヴィロージ/カッサーニ組が乗る2倍以上の排気量とパワーを誇るフェラーリ340アメリカだった。ブラッコは3位のフェラーリ212エクスポルト・スパイダーには12分もの大差をつける速さだった。

その後、ふたつの国内レースで9位と総合優勝を獲得すると、ル・マンに出走している。ペアを組むことになったのは有力プライベートチームのスクデリア・アンブロジーナを率いるジョヴァンニ・ルラーニ伯で、伯爵のアドバイスに従ってイタリアのレーシングカラーである赤に塗り直された。結果は後続に1周以上の差をつけてのクラス優勝であった。8月にはブラッコのドライブによってペスカラ6時間レースで総合優勝を果たした。

そして11月、この疲れ知らずのアウレリアGTは再び黒に塗装されると、今度は大西洋を渡って、メキシコの荒野を5000km走破する公道レース、第2回カレラ・パナメリカーナに参戦する。よい位置に着けていたが、4日目にクラッシュし、残念ながらリタイアに終わった。ブラッコは壊れたアウレリアをメキシコのペレドという建築家に売却。ペレドは車を修理して白にペイントすると1952年のカレラに参戦し、クラス9位の成績を収めた。これはすでに美味しいところを出し尽くしていた感のあるマシンにしては悪くない成績といえよう。

初年度の戦績も見事なものだが、さらに重要なのは、この車がプロトタイプとなって、その後ワークスチームやプライベートドライバーが、レース車両のルーフを低く切り詰めたという点だ。ペスカラでのレースを終えてからメキシコ行きの飛行機に乗るまでの2カ月の間に、おそらくトリノのランチアで作業が行われたのだろう。ルーフを低くすることで前面投影面積を削り、空気抵抗を低減した。モディファイはルーフを下げることに留まらず、やはり空力的な理由からノーズを20mm低くしている。そのため、フロントのフェンダーは内側と外側の肉がそぎ落とされたことで、通常のB20GTとスタイリングが異なる印象を与えている。運転席脇のレバーで操作する可変式リアダンパーや、ナルディ製のフロアシフトも備えられている。B20GTのオリジナルはコラムシフトなのだ。

1952年のカレラで完走したあと、このアウレリアはメキシコで数回レースに参戦したようだが、その後は行方不明となり、アウレリア・エンスージアストの間では南米で消息を絶ったと思われていた。しかし最近になって北米で生き残っていたことが明らかになった。スイスに住むイギリス人の現オーナーがこの車を購入したのは2011年のことだ。幻のアウレリアが現存すると分かると、まずランチアの権威であるイタリア人のダニエレ・トゥリージが入手し、自らレストアするためにアメリカからイタリアへ送った。その輸送途中に現オーナーが買い取ったのだ。

編集翻訳:伊東 和彦(Mobi-curators Labo.)Transcreation:Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下 恵 Translation:Megumi KINOSHITA Words:Paul Hardiman 

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