行方不明だった名車「ランチア・アウレリア」が発見され、往年の輝きを取り戻すまで

Photography:Ashley Border, Simon Clay, Paul Harmer



仕上げに必要なパーツを求めて、ケラムは世界中を探し回った。ヘッドライトは古いストックから新品を見付け出した。「元の茶色い包装紙から取り出した」とケラムは振り返る。探すのに一番苦労したのがシリーズ1のフォグランプで、その甲斐あって淡いグリーンの色合いが華を添えている。

ボディワークのフィニッシュについては、当時の作業を完全に再現することになった。オリジナルと同じセルロース塗料をアメリカとヨーロッパで調達し、まずミッレミリア参戦時の黒に塗り、次にル・マンの赤、そして再び黒と塗り重ね、この車が辿ってきた歴史を再現して、後世に残したのだ。スポンサーロゴも当時の手法を再現すべく、コンピュータグラフィックは一切使わず、職人のマーク・エイミスがすべて手作業で描き上げた。一部をイタリアで、残りをメキシコで入れたものなので、異なるスタイルが混在している。

内装は、ウェストサセックスのオローク・コーチトリマーズ社が担当。アルデアのシートは、1951年のカレラ参戦時と同じペールグリーンのウールクロスで覆った。残っていたインテリアはごくわずかで、モデルにもできない状態だったため、写真を手がかりにひとつひとつ再現していった。

本物だけが持つオーラ
 横に立って眺めるだけで、なにか鳥肌が立つような感覚に襲われる。完全な新車に見えるのに、実は64年もの時を経た車なのだ。運転してみるとよく分かる。だが、多少重く感じるとしても、それは現代の車に比較してのことだ。攻めるほどに軽くなるアウレリアは、当時の人々にとって異次元のマシンだったに違いない。まさに世界に誇るべき偉大な車だ。

それにふさわしいお披露目の場として、レストアが完了するとすぐに再びアメリカへ渡り、2014年のペブルビーチ・コンクール・デレガンスに出展された。

私たちが偉大なる耐久レースのベテランとコッツウォルズで過ごした1日は、現実ではないような不思議な時間だった。取材を終えた私たちが引き上げる頃、オーナーもこのワンオフを運転してロンドンへ帰る支度をしていた。ソンブレロとメキシコのガイドブックをパーセルシェルフに載せる。この車なら、様々な舞台で活躍できるだろう。オーナーはランチアのグループCカー、LC2も所有しており、誇らしげにこういっていた。

「2台は最高のブックエンドだ。ランチアの最初と最後のワークスレーサーだからだよ」

LANCIA AURELIA GT
グランドツーリングカーとして大成功をおさめた。
この稿の主人公であるアウレリアGT(B20)は、空気抵抗を減じるためにルーフを低く切り詰めているが、その比較対象として、標準型アウレリアGTの姿を掲載しておきたい。アウレリアが登場したのは1950年のことだが、まず4ドアベルリーナ(B10)が発売になり、1951年にカロッツェリア・ギアのマリオ・フェリーチェ・ボアノのデザイン、ピニン・ファリーナの製造による2ドアクーペのGT(B20)が加わった。さらに1954年には2座オープンボディ(ピニン・ファリーナ製)が加わった。アウレリアは世界始めてV型6気筒エンジンを搭載した市販車で、進歩的で凝ったシャシー設計と相まって、優れた運動性能を発揮した。B10登場時の排気量は1.8リッターであったが、GTの登場に合わせて2リッターに拡大され、最終型では2.5リッターになった。(photo=FCA Archives)


レストアでは、いったん地金の状態まで戻してから、黒、赤、黒と3回塗装して、カレラ・パナメリカーナ出走時の状態を再現した。スポンサーロゴなどもすべて手作業で入れたもの


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1951年ランチア・アウレリアB20GTクーペ(B20 ※1010)
エンジン:1991cc、60度V型6気筒、OHV、ソレックス製キャブレター×2基
最高出力:100bhp(推定)変速機:前進4段MT、後輪駆動 ステアリング:ウォーム・セクター
サスペンション(前):独立式、スライディングピラー、コイルスプリング、テレスコピック・ダンパー
サスペンション(後):セミトレーリングアーム、コイルスプリング、可変レバーアームダンパー
ブレーキ:4輪ドラム 車重:1000kg(概算)最高速度:160km/h 0-100km/h:16秒(推定)

戦績
1951年4月23日 第18回ミッレミリア 総合2位、クラス優勝
1951年6月3日 コッパ・デラ・トスカーナ 総合9位
1951年6月10日 カラカラ・ナイトレース 総合優勝
1951年6月23〜24日 ル・マン24時間レース 総合12位、クラス優勝
1951年7月1日 コッパ・ヴァルサッシナクラス4位
1951年8月15日 ペスカラ6時間レース 総合優勝
1951年11月 第2回カレラ・パナメリカーナ リタイア
1952年11月 第3回カレラ・パナメリカーナ 総合28位、クラス9位




1951年ミッレミリア出場当時の姿。ほぼ標準仕様のままでの参加だった


1951年カレラ・パナメリカーナ出場時には、ロールーフに改造されている 

取材協力:Thornley Kelham(www.thornleykelham.com)、Mark Donaldson Ltd(www.markdonaldson.com)

編集翻訳:伊東 和彦(Mobi-curators Labo.)Transcreation:Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下 恵 Translation:Megumi KINOSHITA Words:Paul Hardiman 

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