レストアの「素材」として切り刻まれたフェラーリの再評価|250GTピニンファリーナ・クーペ

フェラーリ250GT PFクーペ



往時のままに甦ったPFクーペ
いわゆるセレブリティは、経済界の大物から歌手や映画スターまでこの車に殺到した。とりわけ1959年のパリ・サロンで発表されたカブリオレモデルが翌年に売り出されると、その人気はますます高まった。

この車はピニンファリーナの新しいグルリアスコ工場で組み立てられた。同じ工場ではアルファ・ロメオ・ジュリエッタ・スパイダーも生産されていたが、何しろフェラーリだから、どうしても様々な"スペチアーレ"ボディを造らざるを得なかった。実はその特別仕様の正確な台数が確定していないことが議論の種となっている。つまり、PFクーペは1958年から60年までの間に353台が製造されたというのが定説だが、一部の人は335台と主張しているのだ。

この製造期間の間にエンジンは何度か改良されている。もともとのユニットはティーポ128Cだが、これは2基のディストリビューターを持つ128Dへ、さらに1960年には独立した6本のインテークポートを備えた128Fユニットに進化している。シャシーに関しては1959年にディスクブレーキが採用され、翌年にはオーバードライブがオプションで設定された。

ここに紹介する車は、PFクーペのいわゆるシリーズ2(正式な呼称ではない)である。1827GTというシャシーナンバーを持つこの車は1960年4月にピニンファリーナの工場から出荷され、同月にピサ在住のエンジニアであるレナート・ブオンクリスチアーニが550万リラで購入したという記録が残っている。その後1964年2月に、フィレンツェのミセズ・ジョバンニ・フォルティーニへ売却されている。時代が下った1985年に輸出され、2000年代に入ってから米国経由で英国に渡った時にはレストアが必要な状態だったという。

その際、このフェラーリは250GTカリフォルニア・スパイダーに作り変えられるところを危うく免れたという。ほとんど遺棄寸前の状態でサリーの「DTRスポーツカー」にたどり着いたのは2011年の11月のことだった。

「我々が手に入れた時は、ボディはシャシーから外されており、他のパーツはすべてばらばらに、まるでキットカーのように箱に詰められていた」とDTRの代表であるポール・デ・タリスは振り返る。

「エンジンはある程度まで分解されており、ダメージを受けたり摩耗した部分は明らかだった。ピストンは作り直し、クランクケースはバランス取りをやり直した。シリンダーヘッドも加工し直し、バルブやスプリングなど新しい部品を組み付けた。補機類も完全にリビルトしなければならなかったが、一番苦労したのはなくなっていた部品を探し出すことだった。たとえばクーリングファンはそれだけで3000ポンドもしたんだ。我々は最近330GTSも手掛けたんだが、あの車のレストアはもっとシンプルで容易だった。必要なら工具類も自作したが、オリジナルの部品をできる限りそのまま使うようにするのはずいぶんと苦労した。とても大きな車なので、配慮しなければならない細部が多数あった。これはレストアするのにもっとも手間がかかるフェラーリだろう。でもチャンスがあればもう一度やってみたいがね」

2014年の3月、計2800時間にもおよぶレストア作業を終えて、PFクーペは輝くようなブルー(オリジナルのブルー・セラ・スプレンドール)に生まれ変わった。匿名希望の現在のオーナーはしばしばサリーの自宅からロンドンへ出かけるのに使い、最近ではヨーロッパ大陸でのラリーにも足を伸ばしているという。なるほど、後でステアリングを握ってみて実感したが、これほど素晴らしいコンディションに保たれているのは日常的に走らせているからこそである。この種の車は、敷地内のドライブウェイの先の外界に出かけることはめったになく、その場合もお付きのトレーラーが随行するのが当たり前になっている。その結果、いつの間にか本当に動けなくなってしまうのである。

編集翻訳:高平 高輝 Transcreation:Koki TAKAHIRA Words:Richard Heseltine Photography:Paul Harmer

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