エンジンから吹き出す炎と轟音! 蘇ったビースト「フィアットS76」への熱狂

フィアットS76 Photography:Matthew Howell (action), Stefan Marjoram (restoration)



消えたS76
その後、ロシアの貴族でエンスージアストのボリス・スハノブ王子はフィアットにS76を購入したいと持ちかけた。彼はすでに60HPメルセデス、100HPゴブロン・ブリリエ、そしてチュルカ・メリーなどを所有し、S76はロードカー仕様への変更を求め、不格好な煙突サイズのエグゾーストシステムと左右にチェーンガードが取り付けられた。

だが、1912年の初頭にS76が納車されてすぐ、スハノブは一般道路で走らせるには速すぎて彼の手には負えないことに気付いた。そこでレーシングドライバーのエースであるアーサー・デュレイと契約を結び、フライングマイルとは違って未だ200HPベンツが保持しているフライングキロメートルの記録に挑戦することにした。

1913年9月、スハノブはS76をブルックランズへ送ったが、彼もデュレイもこのサーキットはS76の速度挑戦には向いていないと判断した。代わりに、海岸に沿って7マイルのストレートが続くベルギーのオステンドへ移動することにした。空力性能を上げるため、S76のラジエターにはテーパー形のエクステンション・カウリングが装備された。

だが、運は彼らに味方しなかった。デュレイは1913年の末に6週間にわたって記録に挑戦したが、天候条件は最悪だった。「6週間で天気が良い日は2日しかなかった」と、デュレイが回想している。最後に彼を打ち負かしたのは路面電車だった。いや、海岸沿いの道路と並行して走る路面電車の厄介なディレクターだったというべきか。路面電車が走っているときは記録に挑戦することが許されず、デュレイは40分待ってスタートした。しかもコースディレクターはデュレイのタイムテーブルを変更しなかったため、デュレイは1時間で同じ1kmのコースを2本、しかも1本目と2本目は逆方向へ走らなくてはならなかった。記録として認められるには、この2本の平均速度が必要だった。結局、時間内に走り終えることができず、正式に132.37mph(213.02km/h)が計測されたにも関わらず、この数字は記録として認められなかった。


これがフィアットS76のレーシングキャリアの最後となった。ヨーロッパは、いつ戦争が起こってもおかしくない状況になっていた。この情勢を見て、スハノブは他の大勢の裕福なロシア人と同様に、船に乗り込み祖国を捨てた。アジア方面へ向かったようだが、真実は誰にもわからない。1917年にロシア革命が起き、スハノブや彼の同胞は、誰にも見つからぬよう身を潜めるしかなかったのだろう。

編集翻訳:伊東 和彦(Mobi-curators Labo.)Transcreation:Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:渡辺 千香子(CK Transcreations Ltd.)Translation:Chikako WATANABE (CK Transcreations Ltd.) Words:Mark Dixon 

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