ロウレンス・ポメロイの「ザ・グランプリカー」|AUTOMOBILIA 第3回

ザ・グランプリカー



これには少しばかりいきさつがある。

わたしの通っていた学校では、小学校ですでに英語の授業が行なわれていた。中学に上がると親の意向でフランス語を習わされた。教師は近くに住む元駐フランス日本国大使だった方の老夫人。厳しい方で一対一のレッスンは、常に緊張の連続だった。

ある日、いつも通りお宅にうかがうと、その老夫人が一冊の本を取り出した。ご主人が駐仏大使の時に贈られたクルマの本だという。クルマが好きなようだから、これをお読みなさい。

いただいたところまではよかったのだが、読まずに押し入れにしまいこんだままにしていたのを、「ねー」を契機に思い出した次第。

振り返れば、これが発端だった。たまたまの幸運から素敵な本が手許にある。そうだ、本を蒐集することにしよう。どうせなら、好きなブガッティを中心に。

こうして、今日まで続く、重くかさばる書籍との格闘、が始まったのである。

時代の変遷
昨今、紙モノを取り巻く環境の変化に驚かされることが多い。思い出を刻んだ青山の嶋田洋書が店を閉める。この報には言葉を失った。嶋田洋書がまだ本流(ホンリュウ)と名乗っていた頃から通っているので、拙宅には同店のシールの貼られた本が多い。

また、たとえばブガッティ。ここのところこれという新刊のない日々が続いている。かとおもえば、個人が出版する書籍におもしろいものがある。インターネットの普及で店舗が姿を消しつつある代わり、個人が簡単に本を発行できるようになっている。受注はインターネットを通じて行ない、注文が揃ったところで、印刷・製本する。これだと在庫を抱えるリスクも少なくなる。

このような世の中なので、リュッセルスハイム日記にでてきたロンドンの古本屋も、今はもう存在していないのかもしれない。

一方、本を探すのは楽になった。インターネットで検索すれば、ほぼ、どのような書籍でも見つけることができる。かつては幻と呼ばれたロウレンス・ポメロイのザ・グランプリカーも、ネットで検索すればたちどころに売り物をみつけることができる。ありがたい反面、複雑な思いもある。

ザ・グランプリカーの実物を目にしたことがある場合、すなわち既知のものを探すだけならインターネットは優れた媒体だと思う。では初見ならばどうだろう。本の重さ、ページを開いた時の香り、紙の手触り、印刷の様子、などなど、本には本にしかない魅力があるはずなのだが、その全てがパソコンの画面で伝わるとも思えない。未知の本を購入するときには、まず、実際にふれてみたいと思うのが自然だと思う。

本が単なる情報の仲介役であるならば、それは電子媒体で置換できるかもしれない。しかし、もし、本そのものを味わう対象として捉えているとすれば、実体のある書籍のカタチは必然である。電子書籍には、どこか高精細な画面を壁に掛け、そこに絵画を映し出して観賞するような味気なさを感じる。やはり、五感を癒すためには、実物でなければならない、と思うのだが、いかがだろう。

これからも、あえて紙でなくてはならない、という思いと、その思いを体現した紙媒体の続くことを願ってやまない。

文、写真:板谷熊太郎 Words and Photos:Kumataro ITAYA

無料メールマガジン登録   人気の記事や編集部おすすめ記事を配信         
登録することで、会員規約に同意したものとみなされます。

RECOMMENDEDおすすめの記事


RELATED関連する記事

RANKING人気の記事