神聖化された3台のアストンマーティン「DP」シリーズの一斉テストでわかった事実

Photography:Matthew Howell Period images courtesy Brian Joscelyne, Neil Corner and Paul Chudecki

DP212、DP214そして215は、あらゆるアストンマーティンの中でもっとも神聖化されたモデルである。伝説の三台すべてが一堂に会することさえ稀だが、一台ずつサーキットでテストドライブするのは史上初のことである。

戻って来たアストンマーティン
アストンマーティンにとって初めてのル・マン勝利の三年後、1962年ル・マンのオープニングラップが終わらないうちから、英国人ファンは立ち上がって大声援を挙げていた。素晴らしいスタートを切ったグレアム・ヒルは、ヨーロッパのライバルたちを大きくリードしていた。DP212と呼ばれる伸びやかで美しいマシンは、はるかに強力で実績もあるライバルやワンオフのレーシングプロトタイプを向こうに回してその後もしばらくの間2位を守った。それはたった一度のDP212の栄光の時間だったかもしれない。ダイナモ修理のために遅れ、結局はオイルパイプが裂けたせいで6時間足らずでリタイアを余儀なくされたのである。

1959年のル・マン24時間をDBR1で制した後、同じ年のグッドウッドのツーリストトロフィーでも優勝を飾ったアストンマーティンは世界スポーツカー選手権のタイトルを手に入れた。アストンマーティンのオーナーであるデイヴィッド・ブラウンは、スポーツカー・レースにおいてこれ以上なすべきことはないと考え、F1グランプリに力を集中することにした。しかしながら1960年には革新的なリアエンジンの GPマシンが登場しており、DBR4やその進化型のDBR5のようなフロントエンジンマシンは既に時代遅れとなっていた。スポーツカープログラムに戦力を割いたことによる開発の遅れは取り返しがつかないほど大きなものだった。翌年までにまったく新しいマシンを開発することを検討した結果、ブラウンはしぶしぶ決断を下した。すなわち、1960年末ですべてのレースにおけるワークス活動が中止されることになった。

他にも彼が心していたことがある。モータースポーツ活動は会社の金庫に大きな負担を強いるものであり、そしてスポーツカー・レースで築いたイメージを活かすには、何よりもロードモデルの生産を優先しなければならないということだ。そもそも新型のDB4に対する需要は供給を大きく上回っていたのである。

1959年10月、そのヒット作にDB4GTが加わった。それは一般路上でもサーキットでもフェラーリ250GTSWBに対抗すべく開発されたモデルだった。DB4GTのプロトタイプであるDP199/1(DPはデザイン・プロジェクトを表す)は、既にその年の5月にシルバーストンで行われたレースでスターリング・モスによって初勝利を収めていた。

形こそDB4に似ているものの、DB4GTは様々な部分で大きく異なっていた。ホイールベースは5インチ(約127mm)短縮され、完全な2シーターだった。ボディは薄い18ゲージ(1.02mm厚)のアルミニウム・マグネシウム合金製で、空力性能向上のためにヘッドランプカバーを備えていた。タデック・マレック設計の3670cc DOHC6気筒(302bhp)はツインスパークプラグ仕様になり、ウェバー45DCOEキャブレターを3基装備、またクロースレシオのギアボックスとLSD、ガーリングのディスクブレーキを採用していた。

ワークス活動は中止されたものの、アストンマーティンのモータースポーツへ関与を続けるために、プライベートチームが軽量のDB4GTとDB4GTザガートでレースに参戦していた。その間に海外のディーラーからの要求は膨れ上がっていた。特にフランスのインポーターは、市販モデルを売るためにはたとえ単発でも第一線のコンペティションに出場すべきだと主張していた。結局、圧力に負けたアストンマーティンは、1962年1月に実験的モデルの開発をあわただしくスタートさせた。

編集翻訳:高平高輝 Transcreation:Koki TAKAHIRA Words:Paul Chudecki 

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