神聖化された3台のアストンマーティン「DP」シリーズの一斉テストでわかった事実

Photography:Matthew Howell Period images courtesy Brian Joscelyne, Neil Corner and Paul Chudecki



プロジェクト・アストンのその後
DP215は4周目にリタイアしたランスが最後のレースとなったが、2台のDP214は続くブランズハッチのガーズトロフィーに出場、0195号車のキンバリーはスピンの後にリタイアしたが、アイルランドは0194号車で総合6位、クラス2位に入賞した。さらに続いてグッドウッドのツーリストトロフィーに参加したものの、ここで214は厄介事に巻き込まれる。ホモロゲーション申告書のミスで、プラクティスの後、熱心過ぎる車検委員が61/2リムではなく51/2のホイールを使うように言い渡したのである。これはハンドリングに大いに影響したが、それにもかかわらずアイルランドは0194号車でグレアム・ヒルのフェラーリGTOと白熱のバトルを展開、だがスピンを喫して総合7位(クラス4位)に終わった。マクラーレンが乗った0195号車は一時3位に上がったが、結局エンジントラブルでリタイアした。

最後のひとつ前のレースは、モンツァのコッパ・インターヨーロッパ3時間だった。本来のホイールに戻された0194に乗ったロイ・サルバドーリ(おそらく彼の最高のレースだった)がマイク・パークスのフェラーリGTOと一周ごとに順位を入れ替える激しいバトルの末に勝利をものにした。0195号車のビアンキも3位に入賞、ついにアストンマーティンは、それもイタリアでGTOを打ち負かしたのである。その後2台のDP214はモンレリーで最後のレースに出場するが、これはフランスのディーラーに感謝の意を表明するためのものだった。

4164ccのDBR2エンジン(349bhp)を積まれたDP212と、2台のDP214は1963年末にそれぞれジョン・ダウン、マイク・サーモン、そしてブライアン・ヘトリードのアサーストーン・エンジニアリングに売却された。3台ともダウンのダウネイ・レーシングからレースに出場、214は翌64年の国際的なGTレースに参加することになった。

デイトナやシルバーストン、スパ500kmと転戦した後、5月終わりに行われたニュルブルクリング1000kmで悲劇が起こった。デイヴィド・スケイルズと組んで参加していたブライアン・ヘトリードがプラクティスでの事故で命を落としてしまったのだ。0194号車のサーモンとケリソンはレースを棄権し、0195号車の残骸はロンドンに戻った後、ヘトリードの未亡人の希望でそのボディとシャシーはスクラップにされたという。

一台だけ残ったDP214(0194)はその年のル・マンにも出場したが、8位まで上がったところでオイル補給違反を咎められて失格になってしまった。214はその後も70年代までいくつかのレースに参加した後、マイケル・オットウェイの手に渡り、12年間かけてレストアされたという。1993年に現オーナーであるサイモン・ドレーパーが手に入れ、近年はヒストリック・イベントの常連となっている。

DP212は70年代から80年代はじめにかけて時折サーキットに姿を現したが。ダウン子爵はその後かつてのアストンマーティン・ラゴンダの共同オーナーであるピーター・リヴァノスに売却、2000年にはニコラス・スプリンガーの手に渡り、彼はその3年後に現在のオーナーであるウォルフガング・フリードリッヒに売却した。

最後のプロジェクト・アストン、DP215のその後はどうなったのか。

編集翻訳:高平高輝 Transcreation:Koki TAKAHIRA Words:Paul Chudecki 

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