ダットサン"フェアレディ"240Zは欧米からどう評価されたか? 創造神話をめぐる論考

1973年ダットサン240Z(Photography:Paul Harmer)

日本のスポーツカーとして世界的な名声を得た車のひとつ、ダットサン240Z。デザイン評論家のステファン・ベイレイが欧米人の視点からその魅力を解き明かした。

禅の格言に「あらゆる真実は、その逆こそがより真実である」という。この原則を日本のスポーツカーに当てはめてみると、日本の"名車"とはどんなものなのだろうか。

日本においては、「共同作業は個人の表現に勝る」というコンセプトに縛られているようだ。日本には「根回し」という仕事の進めかたを善しとするようだが、これは責任の共有という意味。または「自主規制」という言葉と同義でもある。

それゆえか、日本が誇る高速列車の新幹線は、個人が所有する特殊なスポーツカーよりも高速で走行し、人々から好まれている。さらに、日本の60km/hほどという低い制限速度は、世界でもっとも厳しい道路交通法のひとつだ。

またその一方で、スポーツカーの名称には日本人の感情が顕著に表れている。多くの場合、モデル名は独特だ。

1959年のダットサンSP211はダットサン・セダンをベースにしているため、ダットサン・フェアレディと呼ばれた。これは1958年、当時の日産の社長がNYのブロードウェイに行き、ジョージ・バーナード・ショーによる戯曲「ピグマリオン」をもとにしたミュージカル「マイ・フェアレディ」を見て命名したものだ。

作詞・脚本がアラン・ジェイラーナー、作曲がフレデリック・ロウという作品であり、「ピグマリオン」は花売りの娘が話しかたを学ぶことによって、次第に洗練されていくというストーリーである。スポーツカーであるフェアレディも同じような道を辿った。MGBを思わせる美しいスタイルへと進化していき、最終形である1968年モデル、ダットサン2000ロードスターでは150bhpの出力を実現し、パフォーマンスと品質のあらゆる面において英国車を上回った。

1963年にはホンダS500、その翌年には素晴らしいロータリーエンジンを搭載したマツダ・コスモが発表されている。そして1965年にはトヨタの2000GTがセンセーショナルなデビューを果たした。ジャガーEタイプの影響を受けていることが明らかな2000GTのデザインが誰によって描かれたのか、トヨタはその個人名をなかなか明らかにはしなかった。それは野崎喩(さとる)(以下、文中敬称略)のデザインだと知らされたのはずっと後年になってからだ。日本では、海外よりずっと早く紹介されていたのだろうが、私たち欧米人は、パオロ・トゥミネリが2014年に出版した彼の著作「Car Design Asia -myths, brands and people」で明らかにするまで知らなかった。

1966年にはいすゞ自動車がエレガントな117クーペを発表している。これは、ジョルジェット・ジウジアーロがまだカロッツェリア・ギアにいるときにデザインしたもので、同じく彼によってデザインされたゴードン・キーブルと同等の洗練されたスタイルを持っている。だが日本のあらゆるスポーツカーの中で、もっとも優れていたのが1969年にデビューした、まったく新しいダットサン・フェアレディZだったと私は断言できる。米国や欧州では240Zとして知られている、このスポーツカーだ。

「熱意と冒険心に溢れる人物」
名作と言われるすべての製品がそうであるように、240Zが生まれた発端や進化についても、さまざまな創造神話が語られている。しかしこの神話、つまり「原作者」が誰なのかという問いは、西洋における日本のデザインの進化とその受け入れにおいて重要な役割を果たしたと言える。

240Zは、故片山豊のひらめきによって生み出されたものであることは周知の通りだ。2015年の初め、ニューヨークタイムズの追悼記事で「熱意と冒険心に溢れる人物」と称され、Mr.Kの愛称で親しまれた片山は、積極的に名前を公にしようとしない他の日本人の同僚とは違っていた。彼がこの世を去ったのは105歳のときであった。

片山は早くからモータースポーツに興味を抱き、日産では豪州一周ラリーの監督としてチーム・ダットサンを成功に導き、また、私的にはSCCJ(スポーツカー・クラブ・オブ・ジャパン)の会長を務めた、文字通りのカーガイであった。Zが上陸したころ、米国の代表的スポーツカークラブであるSCCAは、ラグナ・セカとブリッジハンプトン・サーキットで、スポーツカーを愛する観衆に向けて、英国スポーツカーのパフォーマンスを見せる舞台を用意した。そしてこの主役が、片山が持ち込んだ新型の"Z-Car"で、英国のMGやトライアンフ、オースティン・ヒーレーが挑んだ。

片山のストーリーは、デイヴィッド・ハルバースタムが1986年に刊行した『The Reckoning(覇者の驕り─自動車・男たちの産業史)』によって、海外の人々が知ることになった。この書籍では、主に日本の自動車産業の発展にともなった米国の自動車産業の落ち込みについての考察が記されている。

片山は1960年にカリフォルニアへと転勤を命じられたが、そのころのカリフォルニアは、東京からみれば、さながら強制収容所のような場所だっただろう。米国で市場調査をしながら、まだまったく無名だった日産車(ダットサン)の販売に力を尽くし、米国日産の初代社長に就いてからは、米人の嘲笑や文化の壁、そして市場の無関心と戦いながら販売に取り組み、その行動力によってダットサンの市場を広げていった。そして、1969年には、斬新なダットサン510(ブルーバード)が年間6万台の売上を達成するに至った。この成功によって、東京本社では彼の新規プロジェクトに対して耳を傾けるようになり、片山がアメリカ市場では必要だと望んだ"Z-Car"の誕生に繋がったのだ。

編集翻訳:伊東 和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation:Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:渡辺 千香子(CK Transcreations Ltd.) Translation:Chikako WATANABE (CK Transcreations Ltd.) Words:Stephen Bayley Photography:Paul Harmer

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