ジャガーEタイプの「150mphを出したロードカー」という謳い文句を英国・有名雑誌はいかに検証したか

『Autocar』誌のロードテストから数週間後、"9600HP"は1961年ジュネーヴ・ショーから帰ってきた。グリルバーが再び装着されている点に注目。



ベルギーの公道での記録挑戦
当時、欧州大陸の高速道路はほぼ速度無制限で、たいてい2車線。もちろん他の車も走っている。それ以前は、オステンド-ブリュッセル間のジャベック・ロードが使われていた。伝説となったこの道は料金を払えばテスト用に占有できた。だがEタイプのテストは従来と異なっていたし、少なくともプラス30mphの150mphに達するには2倍の距離が必要だった。

「そこで新たに延長中の高速道路を選んだ。未完成で、どこに向かって伸びているのかも分からず、人気(ひとけ)のないところだ。それは当時のE39号線、今日のE34/E313に当たる14kmの直線路で、高低差がなくアントワープ郊外からヘレンタールに向かい、両側を松林に挟まれていた。これで風や傾斜の影響を受けない2車線を確保できた。正確な電気式センサーを備えた第5輪式計測器を持ち込んだが、130mph以上で第5輪を牽引すると、地面から浮いたり、吹き飛んだりすることも考えられた」

ところがロンドンの渋滞の中、サウスエンドへ向かうスミスに問題が発生した。霧が晴れず、その日のフライトがキャンセルとなったのだ。

「すべて準備していたのに。残った唯一のチャンスはドーバー経由の船の夜行便だった。フェリーに車を載せて海峡を渡るのは初めてだったよ。船は霧雨の中、ゆっくりと霧笛を鳴らし、その騒音と振動は私の寝台のすぐ横から鳴っているようだった」

早朝、スミスは霧が濃く闇のなかに船から降り立った。初期のEタイプのヘッドライトには45度に傾いたカバーが掛かっていたが、これは光を上に向かって放ってしまうため、明るく照らされた霧の壁ができる。さらにベンチレーションが貧弱なため車内は曇り、未知の田舎道を走り始めると先が思いやられた。港を離れ、運河を越え左へ向かい、ベルギー方面だと思われる道をひた走った。ピーター・リヴァイアは港倉庫のホテルで待機し、手配したものを受け取っていた。オクタン価100の燃料、レーシングタイヤとその他だ。すべて翌日早朝に備えての品々だった。

翌朝6時、未完成の高速道路に出ると、霧はところどころに残っていたものの見事に晴れ上がり、オレンジ色の太陽が昇っていた。まず道路を下見し、合流路で方向転換ができることを確認した。車の暖機が終わってから、代わる代わる最高速走行に挑んだ。145mphまでは簡単に出た。そこまでは1分も必要としなかったが、ここから5mphを加えるまでには長い時間がかかった。当初、往路で149mph、復路で147mphまで達した。その直後、一般車のVWビートルが車線に現れるようになった。当時のベルギーではビートルばかりだった。ビートルが地平線の彼方に姿を消すほど遠くにいても、ジャガーは110mphの速度差で抜き去ってしまう。これはできれば避けたかった。

右足はスロットルペダルを踏みつけていることで、ほとんど痙攣して固まり、ビートルはまるでバックして来るように見える。意に反して反射的にペダルを緩めそうになる。だが車は安定して安心感があった。後のエアダムやウィングの時代からすれば驚きだが、長いカーブを描くノーズもリフトせず、フロントの安定感は失われず、短いテールがふらつくこともなかった。

二人で 2、3回ずつ走ってから、道路端で打ち合わせしていると車は熱で喘ぎ声を上げていた。エグゾーストパイプはカラカラと音を出し、熱くなったタイヤと、オイルの匂いがした。二人とも往路で150mphを叩き出していたが、復路では148mphに留まっていた。条件はよくなっていたのでもう1、2回、走ることにした。モーリスはその後のできごとを次のように話した。

「フロアボードが曲がるんじゃないかというくらい、右足をハードに踏みつけていたときのことさ。仕方なくVWを120 mphの速度差で抜いたせいなのか、Eタイプの助手席側ドアの安全キャッチが弾けて開いてしまったんだ。ボディがしなったのか、ドアの外側周辺に多大な負圧が掛かって、そこに内部からの圧も加わっていた。ウィンドウやドアを開けておくと、外側に引っ張られるのは分かるだろう。いずれ、ライフルを撃ったようなバーンという音が安全キャッチのところで鳴ったんだ。怖かったよ。集中しているときだし、次に何が起こるかとね。私が恐れたのは、タイヤのバーストだった」

恐怖はそこで終わらなかった。復路を140mph以上で走っている時に、またもマシンガン掃射のような音が出始めた。ウィンドスクリーン周りのメタルのトリムが浮いて、片側のネジ1本だけで留まっていた。その逆側の端が風圧でなびいて屋根を叩いていたのだという。だが、最後の挑戦は、往路で151.5mph、復路では148.5mphの最高記録をたたき出した。その間、待機していたピーターは親切で気の利いたベルギー人と談笑していた。だが速度計測のための第5輪が付いたフォークと一緒に我々が道路脇に座っていたのを見て、自転車でひどい事故に遭ったと彼は思っていたらしい。

「車はもう、オイルと燃料の残量レベルが低くなって、通行量も先ほどより増えてしまい、窮屈に感じだした。ピーターの最後の1本も、彼にとってのベストになり、往路でほぼ152mph、復路で149mphが出たので、ここで切り上げることにした。実際の最高速度は瞬間的には150mph超えを叩き出したし、計測の公正さも満足のいくものだった」

その後の彼らのレポートによる計測は、151.7mphがベストの1本で、往復では150.4mphだった。ほぼ、その差はない。

アントワープへ戻る頃には車はクールダウンして、落ち着きを取り戻し、元のジェントルで使い勝手のいいスポーツクーペに戻っていた。モーリスははっきりと次のように述べている。

「このタイムアタックは、私が経験した中でももっとも特別なテストだった。同時に、もっとも怖い思いもさせられたが」

ピーター・リヴァイアを取材した時、私は率直に彼に"記事を盛った"かどうか尋ねてみた。「まさか。あれは掛け値なしさ。本当に素晴らしい車の記録樹立に立ち会えたという意味で、Eタイプは格別の経験だった」そう語ってくれた。


150mphランは、ベルギーの高速道路の建設中の直線区間で行われた。

編集翻訳:南陽 一浩 Transcreation : Kazuhiro NANYO Words : Philip Porter

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