フェラーリの「跳ね馬マーク」誕生秘話にもつながる万年筆|AUTOMOBILIA 第5回

バラッカ=フェラーリの万年筆|AUTOMOBILIA 第5回(Photos:Kumataro ITAYA)



フランチェスコ・バラッカは1888年5月9日に生まれ、1918年6月19日に亡くなっている。撃墜され、捕虜になるのを嫌い拳銃で自殺した、というのがその最期の様子らしい。これが事実だとすれば、わたしにはフェラーリと縁の深いエンジン技師、ヴィットリオ・ヤーノが、肺癌を患っていると思いこんで拳銃自殺してしまった故事と重なる。

フェラーリは人生における初勝利を1923年にサヴィオ・サーキット(チルキット・デル・サヴィオ)で挙げている。1923年とはヴィットリオ・ヤーノがフィアットからフェラーリのいるアルファロメオに移籍した年でもある。フェラーリが自ら書いているところによれば、初勝利を挙げたサヴィオ・サーキットがバラッカ伯爵家の領地にあったことから、フランチェスコ・バラッカの父エンリコ・バラッカ伯爵に会う機会を得て、更に伯爵から伯爵夫人を紹介され、この時の縁が基となり、後にバラッカ伯爵夫人からフランチェスコ・バラッカが機体に描いていた跳ね馬のマークを譲られた、とのことである。

譲られたフランチェスコ・バラッカゆかりの黒い跳ね馬のマークを、モデナのシンボルカラーである黄色地に描いてフェラーリの紋章とした、というのがエンツォ・フェラーリの語る跳ね馬の由来である。

バラッカ伯爵夫人から跳ね馬のマークを譲られた経緯については、エンツォ・フェラーリの創作であるとする向きもあるのだが、スカイラインは桜井真一郎が名付けたのだ、という話と同様、わたしはフェラーリの語る跳ね馬の由来話がとても気に入っている。

細かな経緯は置くとして、フェラーリの跳ね馬がフランチェスコ・バラッカの機体に描かれていたマークに因るのは、紛れもない事実である。

全くの蛇足ながら歴史とは不思議なもので、エンリコ・バラッカのみならず、エンツォ・フェラーリも、そしてヴィットリオ・ヤーノも、皆、息子に先立たれている。

文、写真:板谷熊太郎 Words and Photos:Kumataro ITAYA

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