「ポルシェ ワークス924カレラGTP」の1980年ル・マンでの絶体絶命の窮地と完璧なレストア

ポルシェ カレラ924GTP(Photography:Jamie Lipman, Porsche archive)



独米英の代表チーム
それにしてもポルシェはいったいどんな理由で924のワークスチームを1980年のル・マンに送り込んだのか?

ポルシェはその10年前にル・マンを初めて制覇、その後の1970年代にはさらに4度の総合優勝を果たしている。創業直後からル・マンに参加しているポルシェではあるが、その頃はやや振るわず、総合優勝を狙える新型車が登場するのはグループC規定が施行される1982年のことである。その間に、よりコンパクトなフロントエンジンモデル、伝統的な911主義者からは本物ではないと見なされていた新世代のFRポルシェをアピールすることにしたのだろう。

ポルシェの偉大なレースエンジニアだったノルベルト・ジンガーは、わずか7カ月で924をル・マンレーサーに生まれ変わらせた。トップレベルでレースするためにポルシェに加わった彼は当時もっと大事な仕事、すなわち後に無敵を誇るグループCの956を開発するという計画を抱えていたはずだが、当時の我々は知る由もなかった。924はいわば会社の業務としてのものだが、それでもその結果は素晴らしかった。

ポルシェ自身によってエントリーされた3台のポルシェ・カレラ924GTP(どのカテゴリーにもホモロゲートされていなかったのでPはプロトタイプを表す)は、それぞれドイツ、米国、英国を代表していた。リアフェンダーにそれぞれの国旗が描かれたことを除けば3台は皆同じスペックである。ドイツチームのドライバーはユルゲン・バルトとマンフレート・シュルティ、ギュンター・ステッケーニッヒ、米国チームはピーター・グレッグとアル・ホルバート、そして我々英国チームはアンディ・ラウス、デレック・ベルと私である。

アンディと私が選ばれた理由は、1978年の英国の924ワンメイクシリーズで好成績を収めたからだろう。デレック・ベルはその頃すでにル・マンに10回出場し、1975年には総合優勝に輝いたスタードライバーで、大勢の英国ファンを招き寄せてくれるはずだった。いっぽう私とアンディは一度もル・マンを走ったことはなかった。もっともこのドライバーラインナップはグレッグが交通事故で怪我を負い、またギュンターが肝臓に問題を抱えていることが分かり見直さざるを得なくなった。

我々は二人でいくつものレースに勝った経験豊富なドライバーだったにもかかわらず、ル・マンの新人ということでポルシェからはビギナーとして扱われた。だが、スパ24時間やRACツーリスト・トロフィーをともに戦った我々は、その種のプレッシャーには慣れていた。私にとってアンディと同じ車でレースするのは非常に楽しいことだった。我々は同じぐらい速く、またこの種のレースでは重要なことだが、必要とあれば調子の悪い車を同じようになだめながらゴールすることもできた。二人が組んだレースでは一度のアクシデントもなく完走していたのだ。

レースの前日、当時のポルシェのモータースポーツ広報のボス、マンフレート・ヤントケが我々を呼び出して、申し訳なさそうな顔で、デレックがアメリカ・チームの車に乗ることになったと説明して謝ってくれた。我々ががっかりするどころか、晴れ晴れとした顔を見せたことに彼は驚いたようだった。デレックは素晴らしい男だし、彼の貴重なアドバイスをもらえるのは有難かったが、私たちはふたりで走ってみたかったのだ。

編集翻訳:高平高輝 Transcreation:Koki TAKAHIRA Words:Tony Dron Photography:Jamie Lipman, Porsche archive

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