朽ち果てたデ・トマソの工場で見る一人の男の切ない歴史

Photography: Roberto Brancolini

イタリアのモデナで発見されたデ・トマソ・アウトモビリの工場をご存知だろうか。朽ち果てた廃墟は、1959年にアルゼンチン人レーサーであるハンドロ・デ・トマソによって設立されたままの状態である。

デ・トマソは極めて限られた数でレースカーやプロトタイプを製造するところからビジネスをはじめた。1970年代もF1マシンも含めたマシンの開発を進め、1970年のF1ではウィリアムズチームがデ・トマソが手掛けたマシンを採用していた。ノーマルなスポーツカーも製作しており、1963年にはフォード製4気筒エンジンを積んだヴァレルンガを発表した。1966年には、フォードと共同開発したV8エンジンを積んだマングスタを発表する。その後、マングスタはデ・トマソを代表するモデルとなった。



約400台のマングスタを製造し、1970年にパンテーラの開発がはじまった。これは、「フォードGT40を彷彿とさせるスポーツカーを製作する」というプロジェクトのもとでフォードときょうどう共同開発されたモデルだ。1973年までに6100台が製造されたが、その時期はフォードが経営困難に陥っている時であった。その影響を受けてデ・トマソとフォードのパートナーシップは終了することとなる。しかし、デ・トマソは、少ない数で1993年までパンテーラの製造を続けた。その後も、いくつかモデルは発表されたがフォードのサポートがあった頃のデ・トマソ黄金時代を再度迎えることはなかったのだ。

2003年、ハンドロ・デ・トマソがこの世を去り、家族は彼が残していったものを売りに出した。今日でも残っているデ・トマソが所有していたものは、朽ち果てた工場のみ。最後までここに残っていたのは、2人のスタッフ。彼らは、給料が支払われなかった時ですら、デ・トマソへの愛で働き続けていたという。



そのうちの1人、セルジオ・セゲードニは1971年、30歳の時にデ・トマソのメンバーに加わった。ここにあるのが、彼がかつて働いていた"オフィス"であったのだ。朽ち果てた工場を見たときは悲しく、ショックな出来事であったという。

「昔はこの工場はとても綺麗に扱われていたんです。ボスであるデ・トマソからのリクエストがあったので。こんな姿になってしまうなんて想像もできなかったです」と、セゲドーニは語る。

「デ・トマソの妻が私にデ・トマソへ来ないかと尋ねてきたんです。1971年にマングスタの歴史が終わるところも、パンテーラの製造ラインがスタートするところも目の当たりにしました」

「最初に作られた150のユニットは、プロトタイプとして究極のハンドメイドで作り上げられていました。すべてアメリカへ渡りましたが、いくつか技術的な問題が見つかりました。車としては良いものでしたが。その頃は様々なメーカーから来た約180人の人々が働いていました。そのことも影響してか、色々な国から取り寄せた部品で組み立てを行っていたのです。例えば、エンジンはアメリカ製、トランミッションはドイツ製、ボディはイタリア製。それらを使い、一つの車を組み上げていました」

「様々な問題はありましたが、何かオーダーするとき時は一番苦労しました。というのも、デ・トマソは支払いに関して酷評されていたのです。最終的には支払うのですが、いつも遅れていたのでサプライヤー、特に海外の会社からは悪い印象しか抱かれていなかったでしょうね。結果として、私は常にパーツ不足に悩まされていましたよ。トランスミッションやエンジンに関してはほぼ無かったです。ルーカスなどのイギリスサプライヤーは支払いに関して寛容だったので少しは手元にありましたが」

1993年からは、心臓発作に襲われたハンドロ・デ・トマソの日常的なケアもセゲドーニは行っていた。ミーティングの際には車を出して送り迎えもしていたそうだ。ある日、購入などを担当しているマネージャーとデ・トマソが話しているところを見かけたセゲドーニはマネージャーにこう伝えたそうだ。「もし、私が要求している材料を全然用意してくれないならば殴ってやる」

それに対して、デ・トマソが彼を見てこう言った。「もし、彼を殴るなら私のことも殴らなければいけないよ。なぜなら、ボスは私だから」それに対して、セゲドーニは「もし、あなたが要求するならばあなたのことも殴りますよ」と答えた。デ・トマソはそれに対して笑い出し、その日からセゲドーニに対して穏やかな対応をしてくれるようになったのだそう。一般的には、デ・トマソは強く自信に溢れた人物に見えるが、同僚や友人の前ではシャイであったと言う。



フォードとのパートナーパートナーシップが終了してからは、従業員の数が40人まで減らされ、ハンドメイドで車を作ることはもはや不可能にすら思えた。そんな中でセゲドーニは、他のメーカーから社員としての誘いを受けていたが断り続けていたそうだ。

「車が好きだし、車のあるところが私のいるべき場所なんです。私は常にベストを出して働いていたし、そのことをボスは認めてくれていました。彼が病気になったときは、彼をちゃんと理解している2,3人の人と一緒にいるようにしました。デ・トマソの脳みそは完璧に働いていたのですが、しゃべることや動くことが困難になってしまったのです。リハビリテーションセンターまでよくドライブもしました」


「私は、1995年1月にリタイアしました。デ・トマソで働いていた最後の日々をよく覚えています。倉庫を立て直そうとしていたのですが、デ・トマソが会社として残る希望は全くありませんでした」

Words: Maasimo Delbo  訳:オクタン日本版編集部

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