関係スタッフたちが語るランボルギーニ・ミウラ誕生のころの物語

Images: Octane UK



Paolo Stanzani  パオロ・スタンツァーニ



ランボルギーニに入社したとき、私はまだ学生で、会社はまだ新しく、従業員は10人か12人程度だった。同社への就職を薦めてくれたのは大学の教師だったが、初日に職場でフェルッチオ本人と共に過ごしてみて、自分には2日目はないと思っていた。2日目は私の教師がまた背中を押してくれたおかげで出勤でき、少し落ち着きを取り戻してダラーラと仕事をした。それで自分にできることが分かり、この会社で仕事を続けることにした。

初期の私の仕事のひとつは、ビッザリーニが設計したエンジンをランボルギーニ用に改修し、350GTと400GTに載せることだった。そのエンジンはまさしくレース用で、大量生産や公道使用ができないチューニングだった。

ミウラのエンジンはその息子とも言えるものだが、たくさんの違いがある。シリンダーブロック、カムシャフト、ディストリビューター、新型のクラッチ、別注のギアボックスとシフトなどだ。私たちのプランは、フロントエンジン、リアドライブ、伝統的なランボルギーニ製ギアボックスとディファレンシャルといったスタンダードな構造を基本としていた。ただ、このギアボックスとクラッチがうまく一体となって動くように調整する必要があった。マルチプレートの乾式クラッチは完全にレース向けで、日常的に使用するのは難しかった。しかし、そのせいでギアボックスのシンクロナイザーを簡略化することができたので、メリットにもなった。そうしたわけで打開すべき問題は多くはなかった。

より大径のシングルクラッチプレートを採用したが、スペース上からギアボックス側には取付けられなかったため、クランクシャフト側に接合させる必要があった。同時に、ウェットサンプに変更した。だが、これではオイルがクラッチを滑らせる危険性が生じるので、エンジンとギアボックスのオイルを共用することを選んだのだが、後にそれは間違いだと分かった。SV以降ではオイルは別々にし、それぞれにベストなグレードのオイルを使用できるようにした。これに比べれば、エンジンの回転方向を逆にすることは大した問題ではなかった。

フォードGT40、ホンダの1.5リッターF1マシン、BMCミニなどを見たときに感じたのは、それぞれが各カテゴリーの最も革新的な車だったということだ。成功するには革新の象徴になる必要があることは分かっていた。打倒フェラーリのためにも、私たちの顧客たちは最も進歩した車を製造して市場に出すように訴えてきた。メカニックたちの準備ができたとき、あとは美しいボディが必須だと考えていた。

このような車を買おうとする人たちは、皆が同じアプローチをする。恋人を探す様なやり方だ。一目惚れすることが条件だ。もし恋人が内面的にも素晴らしい人であればよいが、それは後で分かることだ。ベルトーネは一番初期の段階から、過去に見た中でも最高のシャシーに載せるためのボディをデザインできることに喜んでいた。トリノ・ショーからわずか4カ月後の3月になって完成版が完成した。今でも私が見た最初の車は覚えている。オレンジとブラックのツートンカラーだ。



350GTや400GTの初期の頃から、私は完成したばかりの車は最初に運転することにしていた。会社の敷地内で走り、従業員たちに新製品を披露していた。それは、いつも助手席にいるボブ・ウォーレスと、いつも後部座席にいるランボルギーニ本人が信じていた、成功に向けたジンクスの様なものだった。

ミウラで走ったときには、とても驚いている従業員たちの顔がはっきりと見えた。シートが非常に低いことでパイロットになった様な気分になることと、後方からファンタスティックなエンジン音が聞こえてくることは、最初から印象深く感じていた。技術の天才であるダラーラのおかげで、ミウラは最初からよい車だった上に、完成車には対処すべき問題点がほとんどなかった。強いて言えば、後方からの熱をもっと分散させることと、後方視界を改善することくらいだった。最初はパースペックス製パネルを使用することを検討したが、蒸発したオイルですぐに曇ったり汚れたりして、後方視界はもっと悪くなった。この理由から、例の独特のルーバーを採用した。

空気力学的には、なにも解決すべきことはなかった。ただ、250km/hを超えるとフロントが軽くなったが、これは当時、他のどのスポーツカーもが抱える問題だった。フロントガラスに当たるラジエターからの熱気をかわし、リアサスペンションのストラットを強化する必要はあった。私たちが唯一本当にミスを犯したのは、フロントとリアのタイヤサイズを同じままにしてしまったことだ。

今から考えると、かなりの少人数で若いチームが成し遂げたことには驚くばかりだ。ダラーラと私が最年長の27歳だった。そして弱冠25歳だったボブ・ウォーレスは、ロータス、カモラディ、スクーデリア・セレニッシマでのメカニック経験から、テストドライバー職に昇進した。フェルッチオ・ランボルギーニが唯一懸念していたのは、ミウラがレーシングカー的であったことで、私が彼に隠れてレース参戦を考えるような悪巧みをしてはいないと説得する必要があった。それでも彼は最初からミウラを気に入っていた。

ベルトーネまでミウラを運転して行ったことは、よく覚えている。普段はフィアット500に乗っていたが、その出張に関わる移動にはミウラを使わせてもらった。ある雨の日、私はフェラーリのドライバーに遭遇した。そのときなにを思ったか分からなかったが、とにかく彼に負けられないと心から思った。気がつくと、雨の中を250km/hで飛ばしていた…。ミウラはやけに目立ったので、週末にミウラを運転していると、まったく落ち着かなかった。でも、フェルッチオはそういうこともとても気に入っていた。それで土曜の朝はいつも彼の家と自宅を往復していたのだが、彼は自分のミニ・クーパーSを譲ってくれた。私はこの車が本当に大好きだった。

フェルッチオは、ディーラーが中古車をうまく管理できていないことや、昔からの重要顧客らのものと同様の車を乗り回す"悪人"たち増えたことから、ミウラの生産中止を決定した。とても悲しいことだった。ボブと私が空き時間に造り上げたイオタは、余分なものを取り去って軽量化した上にパワーアップを施し、ミウラの次の進化形になるはずだった。

編集翻訳:伊東 和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation:Kazuhiko ITO(Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:東屋 彦丸 Translation:Hicomaru Interviews by Massimo Delbo

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