関係スタッフたちが語るランボルギーニ・ミウラ誕生のころの物語

Images: Octane UK




Marcello Gandini マルチェロ・ガンディーニ



私は、ミウラに携わることができてとても幸運だった。この車はすべてのことにおいて、正に適時かつ適材適所だったからだ。私は大学を卒業していない。車に対する情熱に素直に従った結果、私はリセオ・アーティスティコ(芸術分野を専門とする中等学校)に通い、デザインのスキルを磨いた。ただ、いつもデザインしたいと思っていたのは、車のメカニズム部分の方だった。その後、すぐに仕事に就いた。

トリノ・ショーの直後、フェルッチオ本人の命でジャン・パオロ・ダラーラとパオロ・スタンツァーニが、ベルトーネの本拠地であるグルリアスコにやって来た。フェルッチオ・ランボルギーニとヌッチオ・ベルトーネは、すでに口約束を交わしていて、そのプロジェクトが実現可能かどうか、確かめに来たのだった。そして、私がこの新プロジェクトの担当者となった。私の考えでは、集中してなにかに取り組むときには、仕事を成就することが唯一の目的であり、多くの疑問点を解決するためには頻繁に自問自答する。そういった疑問点の答えを求めると、自然とうまくやろうとするし、プロジェクトをベストなものにするための努力は惜しまない。

私のデザインを初めて見せたその瞬間から、彼らは猛烈な興味を示してくれた。このリアクションは大いに私の励みになった。自分のアイデアを気に入ってもらえたデザイナーは、自分自身やそのプロジェクトにより一層自信が持てるからだ。しかしながら、実物大サイズのシャシーのモデルを見せられた後、デザイン完成の締め切りは20日後だと告げられた。そう、たったの20日で仕上げろというのだ。

多くの人々が「すべての車のなかでミウラが一番格好いい」と言ってくれるのは、素晴らしい褒め言葉だ。しかし、その功績は私だけのものではない。運がよかった。ミウラが非常に美しいのは、別の車を真似したような模倣品ではないからだ。ミウラは、1950年代のミッレミリアでレースをしていたスポーツカーの完璧な進化形だった。

私がデザインした頃、人々はミウラのアグレッシブながら魅惑的な姿にすぐに惚れ込んだ。しかし、その後に出たカウンタックでは、私はあまり幸運ではなかった。車自体は悪くはなく、当時はそのスタイリングが17年間も好まれるとは思えなかったのだが、一般の人々に理解されるにはとにかく時間がかかった。唯一、後悔しているのは、皆がずっと忘れない様な、第一印象のインパクトに欠けていたことだ。最初のプロトタイプのボディ製作に直接関わった私にとっては、製造工程や完成車を毎日見ていたから、驚きがなかったのだ。



私はミウラを運転したときのことはよく覚えている。その時はまだ改良を続けていたプロトタイプの頃だったにもかかわらずだ。ヴァッレ・ディ・スーザ(スーザ峡谷)に向かったある日、150km/hで走っていて警察に止められてしまった。そこは法定速度50km/hだったのだ。疑いの余地なく、ミウラはいつも運転して楽しい車だった。

あの頃からはたくさんのことが変わってしまったから、私になにか違うことができたかどうかは分からない。私が大好きだったのは扁平タイヤだが、その頃はまだ一般的ではなかった。初めの2シリーズに装着された古いプロファールのタイヤではミウラのルックスを活かすことができず、車高が高く車幅も狭く見えた。SVになって、やっと大きなタイヤを採用したことで、このビジュアル的な制限は解消された。そこで私たちは少し雰囲気を変え、細部のパーツをより洗練されたものに変更した。ちなみに、ミウラは決して大型車ではない。全幅はわずか1.76メートルで、現代の一般的な車と似たようなものだ。

もちろん、ミウラは今でも私にとって一番誇りに思う作品のひとつだ。しかし正直なところ、スタイリングだけでなく、全体的なプロジェクトに携わった他の車には、個人的にはより一層の満足度を感じている。ミウラは、私に言わせれば、他人のプロジェクトに私がデザインしたボディを載せただけのものなのだ。たとえあるプロジェクトが無名のままだったり、生産に至らなかったりしても、その車の全体的な構造にまで関われることに、私は最大のプライドを感じる。また、大量生産される小型車の仕事の方が好きだ。スーパーカーよりもっと多くの部分を進化させることができるからだ。



ミウラは私の一番大事な思い出のひとつには違いないが、もしあの日、私が担当になっていなかったとしても、私のキャリアは大して違ったものにはならなかっただろう。私のスタイルは既によく知られて評価されていたし、ミウラを仕上げた数日後には、もうランボルギーニ・マルツァルのプロトタイプのデザインを始めていた。また、1973年に手掛けた4ドア版エスパーダのプロジェクトにも楽しく懐かしい思い出がある。生産には至らなかったが、今でも充分に美しいデザインだ。

編集翻訳:伊東 和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation:Kazuhiko ITO(Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:東屋 彦丸 Translation:Hicomaru Interviews by Massimo Delbo

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