関係スタッフたちが語るランボルギーニ・ミウラ誕生のころの物語

Images: Octane UK



Valentino Balboni ヴァレンティーノ・バルボーニ



私はミウラの父と名乗ることのできる人物ではない。ボブ・ウォーレスこそ正に父だ。だが、ミウラのおかげで今の私があることは事実だ。ランボルギーニには1968年に、19歳で入社した。ある日、ドン・ピッツィの教会に設けられたティーンネイジャーのためのユースクラブで、テーブルサッカーを楽しんでいたが、その時、友人が近くのサンターガタに住む両親のところに行く用事があるので、誰か一緒に行かないかと皆に聞いていた。とにかくなにか違うことがしたかった私は、彼に同行することにした。真新しいランボルギーニ工場の前を通り過ぎたとき、メナビューの大型トラックが見えた。しかも、そこではベルトーネの工場から届いたミウラのボディを何台も降ろしていたのだ。

メカニックのひとりが、倉庫の中でその非常に美しい車を押しているのを見たとき、私は自然とそこに行って手伝ってしまっていた。終わった後、守衛が血相を変えて、私に敷地内に入ってはいけないと言ってきた。だが、落ち着きを取り戻した彼は、「ここで働きたいか」と聞いた。彼はザンベリといい、フェルッチオ・ランボルギーニの個人的な友人だった。私は翌週から見習いメカニックとして雇われた。

私の最初の仕事は、納車前の車を磨くことだった。その後、メカニックが車のメインテナンスに使うパーツの清掃をした。主にクラッチとバルブだった。見習いとしての業務のひとつに、朝夕に車を押し、メカニックの仕事場に車を出し入れすることがあった。しばらくすると運転もするようになった。その役目の中で、許しを得ずに初めてミウラのエンジンもかけ、建物の周りを運転した。これは修理のためにフードを外した車だった。

窓の開いたオフィス前を、爆音をたてながら砂埃を巻き上げて走ったので、オフィス内の女性たちの不満が爆発した。それで以前の上司だったレモー・ヴェッキーとパオロ・スタンツァーニに言いつけられ、私は叱られた。

その頃の私は、一人前のメカニックに昇進するためにいつも勉強をしていた。それは、本当の「マエストロ(巨匠)」として憧れていたボブ・ウォーレスの影響だった。ボブとスタンツァーニの二人が、今の私を作りあげたと言っても過言ではない。彼らは、テストドライバーとしての必要な感性を身に付けるために、基礎を叩き込んでくれたのだ。




ボブと私は、何カ月間もコクピットに座って過ごした。時には、その車をより理解するために、何時間も黙って集中したこともあった。テストカーとして茶色のハラマがあり、信頼性のテストのため毎日、平均1000から1200kmも走らせた。1973年9月5日のこと、私がボブとスタンツァーニからコラウダトーレ(テストドライバー)の資格をもらったその数日後、ついに「正式に」ミウラを初めて運転できることになった。

それは、シャシーナンバー5110の車で、現在ではサイモン・キッドソンが所有している、ブラックとホワイトのSVだった。だが、その時の私は数カ月前にポンコツのフィアット500の中古を買って喜んでいた24歳の若者だった。ミウラに乗ってゲートを越え、テストドライブの準備に向かったその時のフィーリングは絶対に忘れない。

ボブは、エンジニアのスタンツァーニ、ベヴィーニ、ペドラッツィたちから指示を仰ぎながら、プロトタイプの車をテストしていた。その一台は後にディアブロとなる車だった。

当時、私は通常の生産車の担当をしており、上司に問題点などを報告していた。たくさんのミウラを運転したが、本当によく覚えているのは、ペルシアのシャーが注文した車やイオタだった。ときどき映画のセットで使われた車の手入れを頼まれることがあったが、それらはスタンダードなP400、S、SVなどだった。

それから50年が経った今も、こうしてミウラと一緒にいることになるとは思ってもいなかった。何度かミウラのレストアも手伝ったが、当時の私はなんとか購入したいと夢見ていた。残念ながら、1975年当初の中古車市場で一番安いものでも、私の給料では到底買えるものではなかった。ミウラの成功はミステリーに満ちている。なぜだか、どうしてだか分からないが、初めて見たときに誰もがたやすく恋に落ちるのだ。確かに外観は美しいのだが、運転できたなら、どんなに長いドライブでも充分ではないとすぐに感じるだろう。

そういえば、私は今でもミウラに乗る前にリアフードのロックを再確認するが、これを見た皆にからかわれる。これはたぶん本能のようなものだ。ある日、テストドライブでパナリア・バーサ・ロードを180km/hで走っていたとき、後ろからとても大きな音が聞こえた。ルームミラーを見てみると、火花以外になにも映っていなかったからだ。

ランボルギーニに入っていなければ、一体どんな人生になっていたか、見当もつかない。ただ、これほどの楽しさや満足感は感じ得なかったに違いない。

編集翻訳:伊東 和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation:Kazuhiko ITO(Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:東屋 彦丸 Translation:Hicomaru Interviews by Massimo Delbo

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