エンツォ・フェラーリから永遠の命を与えられた「ディーノ」

Images: マティアス・バーツ

エンツォ・フェラーリに対する評判は様々で、一緒に仕事をするのは決して楽ではなかったが、息子を亡くした彼を気の毒に思わない人はいないだろう。ディーノは20歳の頃から遺伝性の筋ジストロフィーに苦しみ、1956年、僅か24歳でこの世を去った。

エンツォは息子の死後数年は喪に服すため黒いネクタイを絞めていたと言われている。のちに彼は新しいV6エンジンに息子の名前をつけた。そしてポルシェ911に対抗するフェラーリのロードカーブランドとして、〝ディーノ〞にある種の永遠の命を与えた。〝Dino〞のロゴは、息子の実際のサインに基づくものだ。



1932年1月19日、妻ローラとの間に生まれた息子アルフレード(ディーノはアルフレディーノの愛称)にいつか家業を継いでもらう事を期待していた。ディーノにはドライバーとしての素質は見られず、工学の勉強に集中すべきとなった(写真:1953年後半、V12エンジンを前にディーノ(左)、エンツォ、そして2名のエンジニア)。モデナのコーニ・インスティテュートの卒業論文では[a twin-overhead-cam 1500cc inlinefour with three valves per cylinder]について書き、更にスイスのフリブールへと進学している。

ディーノがフェラーリ社にどのくらい貢献したのかを測るのは難しい。166MMのボディデザインに携わり、そのフォルムが1954年のレーシングバージョンのモンツァ500と750に応用されたという話がある。

また、初期のアイデアは彼のものという説もあるが、その名を掲げたV6エンジンの開発にどのくらい関わっていたのかは定かではない。ちなみに1957年に新しいフォーミュラ2の規定を満たすように設計された1500ccの V6は、殆どが元ランチアのエンジニアであったビットリオ・ヤーノと元アルファ&マセラティのアルベルト・マッシミーノの仕事であった。

かつて、458にディーノの名がつけられるという噂が立った。ディーノはいまも忘れられてはいない。

その他のディーノ
246と308GT4以外にも、ロードカーとレースカーなどディーノは多くのカテゴリーが存在した


COMPETITION CARS
1957年以降、数々のレースカーが作られた。156F2に始まり、ピーター・コリンズが1958年ドイツGPで駆った246 ディーノのF1(写真)など。また1958年のディーノ206をはじめとして、数多くのモデルにディーノ V6が搭載された。


DINO BERLINETTA SPECIALE
ピニンファリーナによる初のスペチアーレは、1965年のパリで披露された。ブロバローネ氏によるフィオラヴァンティ・フィアット・アバルトスパイダーの提案だ。これによりエンツォはディーノのロードカープロジェクトを進める。


DINO COMPETIZIONE
ピニンファリーナのスタイリスト、パウロ・マーティンは若干23歳で1967年のDinoベルリネッタ・コンペティティオーネをスケッチした(ただし、前後のスポイラーは、経営側の強い意向により追加されたものだ)。


FIAT DINO COUPE
フィアットのディーノ・クーペとスパイダーには1966年からは2リッター、そして1969年からは2.4リッターのV6が搭載された。不思議なことに、スパイダーはピニンファリーナが、クーペはベルトーネがデザインしている。

編集翻訳:藤野太一 Transcreation:Taichi FUJINO  原文翻訳:数賀山まり Translation: Mari SUGAYAMA

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