往年の名ドライバーとも競える「本気」のヒストリック・ラリー

Photography: Osam MORIKAWA, Automobile club de Monaco

最初のステージであるパルクール・コンサントラシオンを終えた、南フランスの温泉保養地ヴァル・レ・バンの町。レストランで食事をとっていたら、小さなフランス男が「ニコッ」とウィンクして、我々のテーブルのパンを食べてしまった。ラリーの参加者のようだったのでナンバーを尋ねたら、なんと11番だと言う。ってことは、この男がワークス5アルピーヌを駆るジャン・ラニョッティじゃないか。私にとって、1976年の初挑戦から3回目となる79年の世界選手権(WRC)モンテカルロ・ラリー。ジャン・ラニョッティとの初対面だった。

その年、発売されたばかりのマツダRX-7でプライベート・チームから参戦し、望外のクラス優勝を獲得した私は、その後も81、84年と日本車でモンテに挑戦した。



その後、レースを走って、ラリーとは疎遠になっていたが、94年に当時勤務していた英ローバーがミニをモンテに復帰させるプロジェクトを立ち上げ、チームオーナーとして参加。ティモ・マキネンとポール・イースターという65年のウィナーを起用して参戦したが、マシン・トラブルで早々のリタイアを喫した。97年には最後のワークス・ミニで自ら参戦。初めて日本車以外でモンテを走ったことになるが、これが私の最後のラリー、と思っていた。

ところが、ひょんなことから、先述のRX-7がマツダのR&Dセンターに当時のままの姿で保管されていたのを発見。これをレストアして、ヒストリック・モンテカルロ・ラリーに出場しようという話が持ち上がったのだ。クラス優勝からちょうど30年目となる2009年に、初めてヒストリック・モンテを走ってみると、まさに70、80年代に走っていたWRCモンテの復刻版といえる内容だった。ルートの長さのみならず、スペシャル・ステージの場所までほぼ当時のまま。周りを埋めるのは当時を彷彿させるクルマたちではあるが、実際にWRCモンテを走った個体そのものというのはごく少ないよう。さらに我がチームは、ドライバー、コ・ドライバーのみならずサービスメンバーもほぼ同じ〝30年熟成モノ〞ということで、現地でもずいぶん注目を浴びた。

この時、ルシアンというフランス人に、現地でのサービスを手伝ってもらったのだが、彼は以前ラニョッティ氏が在籍していたレーシングチームで働いていたとかで、主催者側のゲストで来ていた氏を紹介してくれた。思っていたとおりとてもフランクで、気さくな有名人だった。

77年には日本人初完走をし、79年には日本人初のクラス優勝をした私だが、日本車が初めて3位入賞したのは72年にラウノ・アールトネン/ジャン・トッドが駆ったダットサン240Z。2011年のヒストリックで私が乗ることになったのは、この240Zを忠実にコピーしたレプリカ。ちょうどそのアールトネン氏もミニで参加していて、氏からも「良くできてるね」との言葉をもらった。



初代セリカでの出場となった昨年は、大雪のモンテとなった。スタート地点に選んだトリノから雪で、我がセリカのみならず、多くの参加車が痛々しい姿でのフィニッシュとなった。

さて今年のモンテだが、久々にミニでの参加となった。ドライバーは件のRX-7を走らせた中川一さん。「最後のモンテにするので乗って欲しい」との要請で、68年式のミニ・クーパーSは、彼が2009年に現地で親しくなったデンマーク人からのレンタル。彼が友人とサービスも務めてくれるという。

仏南東部の街ヴァランスまで、1,000km弱を走るパルクール・コンサントラシオンと呼ばれる第1ステージ。例年に増して暖かいモンテカルロをスタッドレスタイヤを履いてスタートしたのだが、翌朝、ヴァランスも近くなったサン=ジャン・アン・ロワイヤンの山を上り始めたとたんにトラブル発生。目の前が一面の銀世界に。路面の雪はしっかり凍結していて、スタッド無しでは速く走れない。下ったタイム・コントロールに遅着となりペナルティを食らってしまったのだ。

翌日の第2ステージからは、スタッドタイヤを履いて、スペシャル・ステージをこなしながら険しい山中を走り抜けて行く。ヴァランスに帰還する直前、ローヌ河に沿ったトゥルノンの街の広場に置かれたタイム・コントロールで、時間待ちで並んでいた我々のミニの小さなスライド窓からラニョッティ氏の笑顔が覗いた。

氏はランスからのスタートだったのだが、我々を見つけて、わざわざ挨拶に来てくれたのだ。ヴァランスからは、全車がナンバー順にスタートしていて、今回、ミニに因んでナンバー〝32〞をもらった我々の4分後ろの36番の白と赤のアルピーヌA110がラニョッティ氏だったのだ。再会を喜んだのは言うまでもない。氏はたいへんな人気者で、クルマを止めるたびに観客に取り囲まれる。



次のステージの、とあるスペシャル・ステージでは、雪道を全開で下って行くと、左コーナーの橋に先行のシトロエンDSが刺さっていた。コースを塞がれ、1分以上もロスして大きな減点をもらったりしながらも、12か所のスペシャル・ステージを終え5日ぶりにモナコに帰着。残すは険しい裏山を深夜に高速で周回する、厳しい最終ステージであるエタプ・フィナル。最終第15スペシャル・ステージは、あまりにも有名なチュリニ峠を越える33kmだ。

今回、心配していたドライバーの体力がやはり持たず、ペース配分を工夫しながらこなしてここまで来たが、人生最後のチュリニを楽しんでもらうためにも、全開で行けるよう最後の叱咤激励。ようやく走り切り、未明のモナコ・ハーバーにフィニッシュ。待ち構えていたサービスメンバーが用意してくれていたシャンパーニュは、グラン・クリュの味がした。

文・写真:森川オサム Words & Photography: Osam MORIKAWA

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