コリン・チャプマンを良く知る人物にインタビュー│DFVレースエンジンの背景も

Images: Mark Dixon,Octane UK



こうして2人は1958年、コスワース・エンジニアリングを設立し、初めはケンジントンの借地で営業を始めた。彼らはそこから数々の成功を遂げ、進化をし続けた。DFVエンジンは、1970年代GPレースをほぼ独占したと言っていいほど、売れた。

「1966年にジャック・ブラバムが突然ホンダのエンジンを使用した。これには驚いた。そして実際にうちがF1に関わるようになった決め手は、コベントリー・クライマックスのF1からの撤退だった。」

「コリンはエンジンサプライヤーを探していた。そしてEssoが資金提供を検討しているさなか、フォードのウォルター・ヘイズがコスワースに投資を決めたわけだ。あれはウォルターの大きな手柄になったんじゃないかな。投資しただけの見返りは十分にあったはずだしね。」

「ただ面白いのは、人々がコスワースという名前で思い浮かべるのはフォードばかりだということ。実際には、我々はジェネラル・モーターズのプロジェクトを手掛けたことが多かったほどだよ。違いは、GMのプロジェクトが機密事項で守られていたのに対し、フォードのマネジメントは常に私たちの仕事を口外することに『寛大』で、何かを秘密にしておくことはほぼ不可能だったということだ。新しいプロジェクトを始めると、半分も進まぬうちに他にニュースが流れてしまうのだからな。」

そう言いながらも彼は、この上ない名声をもたらしてくれた素晴らしいエンジンと、それを育んでくれたフォードについて、静かに誇りにもち続けている。

「DFVエンジンはフォードにとって、 10年以上もの長きに渡って効果的な広告となったはずだ。」コスティンはそう微笑む。「私たちはこのエンジンで1975年、1980年の2回、ル・マンでの優勝を勝ち取った。さらに派生モデルであるDFXは、インディ500で連続10勝を挙げることができた。」

「ジミーが1967年のザントフォルトでDFVのデビューウィンを飾ったことこそが、コスワースにとって大きな業績だった。そのときのジミーはラッキーだったという逸話があるよね。後になって調べたらギアの歯がひとつ欠けていたことがわかったという話さ。この事実はいろいろな本に書かれているが、大して興味はないね。なぜならロータス49を最初に運転したのは私であり、つまりDFVを初めて体験したのは、実際は私なのだから。」

「オランダでのレース前のテスト。ジミーはその頃高い税金から逃れるために国外にいたから、彼に頼むことはできなかった。チームメイトのグラハム・ヒルに頼めば、1周も走らないうちにあれを直せ、これを直せと御託をならべたトイレットペーパーを
持って帰ってくることは容易に想像できた。だから私が運転することになった。それだけさ。」

コスティンは彼自身のドライビングキャリアに関しては、あまり詳しいことは話さない。

「私がロータスにいた頃、コリンと私はありとあらゆるモデルをテストし、その後クラブイベントやナショナルレースに、ワークスカーでエントリーをするようになった。でも私自身がハンドルを握ったことはそう多くはない。一番楽しかったレースは、工場から出荷されたビル・ブラッドリーのトライアンフ・スピットファイアで走った時のことかな。」

編集翻訳:渡辺 千香子(CK Transcreations Ltd.)  Transcreation: Chikako WATANABE (CK Transcreations Ltd.) Words: Richard Heseltine

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