BMW歴代のデザイナーたちが描いた貴重なスケッチ19枚

すべてはスケッチから始まる(Photography:Daniel Kraus)



BMWノイエ・クラッセ・セダン:1962〜1972年
1950年代後半、BMWのモデルラインナップは数が少ないうえにバランスを欠いたものだった。なにしろ、片方に507スポーツカーやふくよかな502リムジーネがありながら、そのいっぽうで現代のSMARTの始祖ともいえる、イタリアのISO社からライセンスを受けた超小型車のイセッタや、これから派生したミニカーを生産していたのである。

「ふたつのモデルラインの間には大きなギャップが存在しており、おかげでBMWは存続の危機に立たされていました」とファン・ホーイドンクは語る。そこに現れたのが実業家のヘルベルト・クワントで、彼は1959年12月にBMWへの財政支援を実施した。

「クワント氏は507が好きだったのでしょうが、それとともに、BMWがミドルクラス・モデルの開発に取り組んでいて、今後、財政基盤が強固になることも承知していたようです」

この計画に基づいて誕生したのがいわゆる"ノイエ・クラッセ"で、その最初のモデルがBMW1500だった。ファン・ホーイドンクが解説する。

「このデザインも外部からの影響を受けています。イタリアのジョヴァンニ・ミケロッティを起用したのです。いかにもミケロッティらしい、緻密でイタリア風の作品です」

クワントは会社に投資しただけでなく、BMW1500のデザインにも関心を抱いていた。そこでノイエ・クラッセの設計と生産に目処が立ったところで、BMW社内のデザイン本部長を務めていたヴィルヘルム・ホフマイスターは1500のデザインをまとめた一冊の本をクワントに贈るとともに、そのビジネスケースを自ら説明したという。そのなかにはデザイン作業の過程を示す白黒の画像が含まれていた。スケッチを示しながらファン・ホーイドンクはこう解説する。

「これはデザインがほぼ完成したときに描かれたものです。スケッチ [2]に示されているように、リアのデザインは実際の製品にも採用されたほか、スケッチ [3]にはホフマイスター・キンクも描かれています。ただし、幅広なグリルは大きく異なっていて、キドニーのヒントが示されただけで個性に乏しいものでした」

「クワント氏が関わり始めたのはこの時期のことで、経営陣とクワント氏はこのフロント・デザインがBMWにそぐわないと判断します。最終的なデザインとされたのは、このスケッチ [4]です。おそらく、大胆なデザインを追い求めたミケロッティに対し、BMW側は『いや、違う。私たちがほしいのはこういうものだ』というやりとりが行われたのでしょう」





編集翻訳:大谷達也 Transcreation:Tatsuya OTANI Words:Richard Bremner Photography:Daniel Kraus

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