「ゴールドフィンガー」への道│007シリーズに多大な影響を与えたアストンマーティンの1台とは?

Photography: Charlie Magee



私たちは今、50年以上前にジェームズ・ボンドが通ったのとまったく同じルートを通っているらしい。『ゴールドフィンガー』でイアン・フレミングが描いたのと同じ、林檎と"さくらんぼ"の果樹園を過ぎていく。遠くではテムズ川が輝き、フレミングが描いたずんぐりとした商船、つやつやしたタンカー、時代遅れの平底帆船はもういないが、代わりにコンテナ船や浚渫船が行き交う。フレミングが、「cheap bungaloid world of the holiday lands:休日の地の安っぽいバンガロー風の世界」と表現したこの地域が過ぎる。ホイットスタブル、ハーン・ベイ、そして最後にレカルバーだ。

私はコーナーでセカンドギアを選んだ。そこは、細い田舎道で、フレミングの頃からたいして変わっていないと思われた。道は高地のケント州境で急降下し、前方には今は廃墟と化した、12世紀に建てられたレカルバー教会の2本の塔が見えた。

カフェとゲームセンターを通り過ぎると、駐車場へと向かった。映画では、レカルバーのオーリック・ゴールドフィンガーの家である"The Grange"の裏側には、彼が密輸の仕事に使っていた精錬所があった。ここで彼のロールス・ロイスのパネルに化けた金は、ラムズゲートに密輸されたのであろう。6月の休日を楽しむ行楽客たちがアストンの周囲に集まってきたが、その中にはたくさんの古い絵葉書を持っていた写真家もいた。彼は、1枚の葉書を示しながら「これはおそらく、イアン・フレミングがボンドについて書いた頃のこの辺りの様子だよ」という。



続いて、私たちはマンストン飛行場へと向かった。だいぶ変わってしまったが、錆びた有刺鉄線の向こうには割れたコンクリートの古い滑走路があり、そこにはボンドが語ったセイバージェットが保管されていた。原作本では、彼はロイヤル・セント・マーク(現実の世界ではロイヤル・セント・ジョージ)でゴルフを1ラウンドしに移動する前にラムズゲートを訪れ、チャンネル・パケットに滞在している。フレミング自身もここでよくプレーしており、金曜の午後にロンドンから頻繁にドライブして訪れ、18ホールを楽しんでいる。

私はバイキングのロングシップが展示されているペグウェル湾を走り抜け、数えきれないほどのラウンドアバウトをうまく通り抜けた(フレミングの時代にはなかったはずだ)。その間、DB2/4のバスほどもある大径のステアリングホイールを操ってコーナーをクリアしていった。バスといえば、ジェームズ・ボンドが所属する組織のMI6で彼に与えられた"007"というエージェントの番号は、ディールからロンドンへのバス路線の007号に由来すると考えられている。

ロイヤル・セント・ジョージの敷地は、隣接する有料道路も含む広大な私有地だが、これはフレミングの時代から少しも変わっていない。守衛詰所(現在は閉まっている)を越えたところで、バンに乗った警備員が旗を振って現れ、私はその道路の使用権のために7ポンド(約1250円)を支払った。警備員はお釣りを渡しながら、「それはあのボンドカーじゃないか」といった。この特別なDB2/4のニュースがケント州にまで届いているのは明らかだった。



ロイヤル・セント・ジョージは、フレミングの人生に幾度となく登場している。彼は、1964〜65年度のクラブキャプテンを務め、心臓発作をおこした1964年8月11日も現地での委員会に参加していた。その翌日、彼はカンタベリーにて56歳でこの世を去ったが、そのとき哀悼の意を表してクラブフラッグは半旗で掲げられたという。フレミングはしばしば現地のホテルに宿泊し、その後、親友のノエル・カワードからセント・マーガレット・ベイの邸宅を購入している。私たちはそこを次の訪問地とすべく、ドーバーに向かった。断崖の上を走り、細く曲がりくねった道を下って湾に向かう。パワフルな3リッターエンジンのおかげで、私はかつてないほどボンドになりきることができた。

1950年代初頭に、フレミングはホワイト・クリフのコテージを購入し、ここでイーヴリン・ウォー、サマセット・モーム、パトリック・リー・ファーマーら有名な友人たちをもてなしている。彼は金曜日にゴルフを楽しんだ後、夜にコテージに到着し、月曜の午後に出発していたようだ。

ノエル・カワードは、イアン・フレミングの息子キャスパーの名付け親だが、二人の友情は、フレミングが"ゴールデンアイ"と名付けたジャマイカの別荘に住んでいた頃に始まった。

ホワイト・クリフでの華々しいできごとが公表されていない一方で、近隣のコーストガード・インには、たくさんの人々が巡礼に訪れているという。私は、フレミングが大きな窓に腰掛け海峡を眺めながら、ドーバー港から現れるフェリーを見ているところを想像した。この近隣の崖は『ムーンレイカー』で登場する。

フレミングが様々な機会にしたように、私たちはA2幹線道路を走り、ブリッジへの案内標識を探していた。あと1マイルのところで、私は交通量の多い幹線道路から脇道にそれ、違う世界に入った。そこは今でも、まるで50年前に転送されたかのように感じるところだ。私たちは、ビショップスボーンにあるサザン鉄道のエルハムバレー線の古い駅の付近を通り掛かった。そこは今では家屋に改造されているが、その路線のトンネルには大量の銃火器が隠されており、海峡に向かって発砲できた。イアン・フレミングが海軍情報部に勤務していたころには、この鉄道について熟知していたことだろう。



その後、アップダウンが続き、静かなコテージや村落を通り過ぎた。T字路の高い生け垣で両方向の視界を遮られながら、私はさらに狭い道路へゆっくりと進んだ。ペット・ボトムへの標識を探していたが見つからなかった。本能的に右折し、ギアシフトを繰り返すと、アストンはまるで行き先を察したようだった。

丘を流れるように下りながら、私の前の小さい窪みの中に現れた古い建物をスパイした。17世紀の飲み屋であったが、1850年代からはパブになったというペット・ボトムのダック・インだ。ちょうど日が暮れる時間で、気が早い数人が外の椅子に座って呑み始めていた。宿の壁には、イアン・フレミングが亡くなった1964年にこの場所で『007は二度死ぬ』を執筆したことを明らかにした青いプレートが填め込まれていた。人々の記憶によると、彼はここを訪れた際、庭で折り畳み式のテーブルに向かって執筆しながらスコッチ(ボンドならウォッカ・マティーニだが)を呑んでいたという。

ペット・ボトムは、子ども時代ジェームズ・ボンドが叔母と過ごしたという架空の故郷である。『007は二度死ぬ』でボンドが死んだと思われた時、彼のボスである"M"が掲載したタイム誌の死亡公告にこの宿のことが書かれている。集まった人々はDB2/4に興味を持っていた。若いパブのオーナー、ジム・シェイヴは若いシェフの頃からこのインに目を付けており、その歴史を保存してフレミングに多大な影響を与えた伝統的な雰囲気を維持することを決心、数カ月前にオーナーになったという。



フレミングがこの地域を愛していたことは明らかだ。すべての文学的資料がそれを証明している。私はダック・インの外でベンチに座った時、その理由がはっきりと分かった。今でこそ、このアストンマーティンはクールダウンし、ジェントルに佇んでいるが、フレミングの小説の中で、熱く躍動していたのである。


1955年アストンマーティン DB2/4
エンジン:2922cc、直列6気筒、DOHC、SU HV6キャブレター×2基
出力:140bhp/5000rpm
トランスミッション:4段マニュアル、後輪駆動
ステアリング:ウォーム・ローラー(Marles)
サスペンション(前):トレーリングリンク式、コイルスプリング、
レバーアーム式ダンバー
サスペンション(後):固定軸、パナールロッド、コイルスプリング、
レバーアーム式ダンバー
ブレーキ:4輪ドラム 重量:1180kg(乾燥)
性能:最高速度117mph(約188km/h)、0-60mph:11秒

編集翻訳:伊東 和彦(Mobi-curators Labo.)  Transcreation:Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:東屋 彦丸 Translation: Hicomaru AZUMAYA Words: David Barzilay 

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