ベントレー創始者が成し遂げた最も偉大な業績は「戦闘機エンジン開発」だった!?

戦場のベントレー(Archive Picture : Chronicle / Alamy Stock Photo)



仏製の欠陥エンジン
このころ、W.O.の力を必要とする案件はこれだけではなかった。1915年当時、英国海軍航空隊の戦闘機は、フランスのピエール・クレルジェの設計によるクレルジェ9B型130PS星形エンジンに依存していた。星形エンジンは信頼性が高く軽量でパワーウエイト・レシオが小さく、直列エンジンより酷使に耐えることが特徴だった。だが、その一方で、潜在的な機構上の弱点を抱えていた。星形エンジンのシリンダーは、直接空気が当たる前面のみが冷却されることになり、裏側は前面と同じようには冷えないという弱点がある。この結果、オーバーヒートによってシリンダーの変形が著しくなると、最悪の場合、エンジン停止を起こして墜落を招く危険性があった。クレルジェは改善策として、シリンダー基部に熱変形を防止するための薄い銅製遮熱リングを装着したが、問題はそれが万全ではなかったことだ。さらにこのエンジンはとてもデリケートで、15回も飛行すれば分解整備が必要になり、とても実用的とはいえなかった。

W.O.は司令官、搭乗員そして整備兵たちと意見を交わすため、頻繁に前線へと出掛けていき、問題が深刻であることを知った。士官のひとりが「この問題について、誰かが何かをしていることを神に感謝するよ。こんな"くそったれ"で飛ぶのは実際自殺行為だ」と吐き捨てるように言い放ったことに衝撃を受けた。

1915年から16年にかけて、合計で4700人以上の英国空軍要員がフランスとベルギーで戦死している。ほとんどは独側の優秀なフォッカー戦闘機にやられたものだが、不完全なエンジンによって兵員と機材の多くを損失していたという事実はW.O.を驚愕させた。ブリッグズ司令官は「この男の命令に従うこと」との命令を添えて、クレルジェ社からライセンスを得てエンジンを生産しているグウィンズ社にW.O.を送り込んだ。しかし、グィンズ社にはクレルジェとの契約に重きを置き、また波風を立てることを嫌う社風であったことから、改革のために送り込まれたW.O.は社内で孤立してしまった。

W.O.はグィンズ社でのクレルジュ・エンジンの改良を断念し、彼自身のエンジンを造ることを決心し、1916年にコヴェントリーのハンバー社へ移籍した。

ベントレー航空機エンジン誕生
1800年代から高級自転車のメーカーとして名を馳せていたハンバー社は、自転車と野戦用野外炊具を軍に納入していた。だが、社長のラッセル伯爵は、それらの仕事があまり重要なものではないと不満を抱き、設計主任であったF.T.バージェスもまたその仕事に退屈していた。

そのため、彼らはベントレーが野心的で斬新なアイデアを抱えて同社に移籍してきたことに驚喜し、W.O.のもとで軍の正式採用を目指してエンジンの開発をスタートさせた。バージェス技師がアルミシリンダーに鋳鉄ライナー、アルミピストンというW.O.流のレイアウトを備え、さらにクレルジェ9B型より長いストロークを持ち、ツイン・インジェクション化した新エンジンの図面を描いた。こうして、最初のプロトタイプとなった星形エンジン、"アドミラルティ・ロータリー(AR1)"の構想が固まった。この案を承認したのは、当時、海軍航空隊の装甲車部隊に所属し、後にベントレー3リッター・オールドNo7で1927年のル・マンで優勝することになる、サミーこと、シドニー・デイビスであった。

AR1は7月まで実働試験が行われ、バルブの固着によるクラックを軽量化により克服するなどして完成。その後、BR1(ベントレー・ロータリー)と改称された。生産型BR1は150bhpを発生し、さらにはクレルジェのライセンスフィーの6割ほどで仕上がるという、コストパフォーマンスの高さを誇った。大半がアブロ504機に搭載され、主に爆撃と監視に従事したほか、新型のソッピース・キャメル戦闘機にも使われた。そのころ、英国空軍は壊滅的な敗北を目前にしていたが、"ベントレー・キャメル"によって、わずかながら勝利の光を見いだすことができた。

編集翻訳:小石原耕作 Transcreation:Kosaku KOISHIHARA Words : Steve Moody Colour Photography : Jamie Lipman Archive Picture : Chronicle / Alamy Stock Photo 取材協力:アラン・ボッドフィッシュ(W.O.ベントレー記念財団)、ヘンドン英国空軍博物館、ストウ・マリーズ第一次大戦航空博物館

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