イギリスが生んだ偉大なドライバー デレック・ベルに聞く栄光の日々

Photography:Delwyn Mallet and Getty Images



デレックのレースキャリアは、大半がアメリカでのものだ。ある資料によれば、350余にのぼる出走数のうち157がアメリカでのレースだという。それはベルの絶頂期ではなく、本人いわく「商売で生き残るのに苦労」していた時期だった。また、断固「生き残った」あと、キャリアの終盤に、再びIMSAやIROCに参加し、テレビ放送されていたスピードビジョンGTシリーズには、アウディS4クワトロで3年間にわたって出走した。

「10代の頃はよく両親にいわれたよ。『何年か国を出てみるべきだ。陸路でオーストラリアまでいってイーディスおばさんを訪ねたりしたらどうだ』ってね。こう返事したのを覚えている。『いつかね。でも、レーシングドライバーとして行く』。すると、『そんな自信がどこから出てくるんだ。運転すらできないくせに』といわれたよ。でも、いつかそうなると分かっていたんだ。自動車レースが好きでたまらなかった。世界中で戦いたいと思っていたから」そうデレックは回想する。

デレックのアメリカでの初レースは、1968年、ニューヨーク州北部の美しい丘陵地帯に位置するワトキンズ・グレンが舞台だった。ベルが今でも鮮やかに覚えているのは、泊まったモーテルの強烈な杉の香りであったという。ワトキンズ・グレンのレースで、27歳の誕生日を数週間後に控えたベルは、フェラーリに乗って2度目のF1のグリッドに並んでいた。カナダGPで脚を負傷したジャッキー・イクスの代役であった。ロータス・セブンでわずか4年前にレースを始めたばかりのベルにとって、大きなステップアップであった。

「ワトキンズ・グレンの雰囲気は素晴らしかった」とデレックは振り返る。数年前にはこのサーキットでグランドマーシャルも務めた。「アメリカでの初レースにして、どえらい経験だった。素敵なコースでね。朝、ジャッキー・オリバーと歩いて回ったのを覚えている。そこでレースした経験がなかったのは、たぶんグリッド上で私たちだけだったと思う。まさか自分が旧コースのラップレコード保持者になるとは思いもしなかった。もちろんF1でじゃない。ポルシェ917でだ」

「みんなグレン・モーター・コートに泊まった。湖を見下ろす場所に今もあるよ。経営していたイタリア人家族には娘が2人いて、黒髪の美人だったから、みんながベッドを共にしたがったものさ。全員がそこに泊まってね、素晴らしい雰囲気だった」

「決勝日の朝には、ドアがガタついたオンボロの軍のヘリが迎えにきて、全員をコースまで運んだ。空から見下ろしてその理由が分かったよ。道は1本しかなかったが、ニューヨーク州の全員がそこに集まっていたかのような壮大なお祭りだったのさ。あの頃、グランプリにしろ、セブリング12時間やデイトナにしろ、大きなレースはル・マンと同じだった。ファンはキャンプして、木を切り倒すは、公衆トイレに火を付けたり、たいへんさ。あそこには有名な沼地があって、泥水がたまっているんだが、ある年には、ファンが市営バスをそこに乗り入れて沈めてしまった。夕方、帰る頃になると、そういう沼はみんな泥だらけの人間で埋まってしまって、警察がフックで引っ張り出そうとしていた。信じられない話だろう」

この1968年のレースで、デレックのフェラーリはリタイアに終わったが、その2年後にこのサーキットでチーム・サーティースのTS7での6位に入り、自身唯一のF1選手権ポイントを獲得した。その時は、当時結んでいた契約で、エンジンはベルが自腹で提供していたものだった。

1971年にベルは再びワトキンズ・グレンに戻ったが、今度は名高いポルシェ917を駆って3位フィニッシュを果たした。この年のシーズンは、ベルのキャリアの重点がシングルシーターからスポーツカーに移り始めた年だった。マーチ712MでのF2のレースは、ほとんどが腹立たしいリタイアに終わっていた。一方、ジョン・ワイヤーのガルフ917では、10戦して表彰台を7回獲得。シーズン初戦と最終戦、ジョー・シフェールと初めて組んだブエノスアイレス1000㎞と、ジィス・ヴァン・レネップと組んだモンレリーでのパリ1000㎞では優勝も飾った。



スポーツカーでの成功にも関わらず、デレックの目は依然としてF1に向けられていたが、開発が進まず信頼性が伴わないマシンに、夢の叶わない苛立ちは募る一方だった。最後のF1レースとなったのは、1974年ニュルブルクリンクでサーティースTS16を駆って、彼が愛した舞台でのレースは11位に終わった。サーティースではこれ以外に5回出走して、予選落ち4回、リタイア1回だった。その後ベルは、完全にスポーツカーとツーリングカーに戦いの舞台を移した(例外として、1977年に型落ちのペンスキーPC3でF1ノンチャンピオンシップ戦に一度登場している)。

1975年は、ジャッキー・イクスと組み、ミラージュGR8でル・マン優勝を果たしたほか、アンリ・ペスカロロとのペアで美しいアルファT33TT12を駆り、ワトキンズ・グレンとオーストリアで優勝した。

デレックのスポーツカーキャリアは上向く一方に見えたが、次に誘われたブリティッシュ・レイランドのジャガーXJ12Cには苦しめられる。

このジャガーは非常に速かったが、それはうまく走ればの話だった。リタイアすることが多く、タイヤが外れて転がることまであったのだ。1977年はジャガーで9レースしたが、ベルの車が完走したのは、わずかに1回だけ。アンディー・ラウスと組んで戦ったニュルブルクリンクのレースで、見事な2位フィニッシュだった。

編集翻訳:伊東 和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation:Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下 恵 Translation:Megumi KINOSHITA  Words:Delwyn Mallet 

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