ヴォアテュレット E.R.A. | JACK Yamaguchi's AUTO SPEAK Vol.11

E.R.A.社を買収したレスリー・ジョンソンのE-type。ドニングトン・グランプリ・ミュージアム。(John Chapman Wiki)



栄冠、脅威、悲劇
1920〜30年代イギリス勢のサーキット活動は、主にスポーツレーシング部門で、ル・マン優勝のベントレー軍団を始め、アストンマーティン、ラゴンダ、ライレー、MGらが好成績を収めていた。その一方、単座オープンホイール・グランプリの方は、1922〜25年2リッター・フォーミュラ期にサンビームが一勝を挙げたのみだった。グランプリ(現在のF1)の規則は、猫の目の様に変わった。1934年、E.R.A.が完成した年には、最大排気量規則から、最小重量を750kgとするフォーミュラに変わった。これは、事実上のフリーフォーミュラであり、ナチス・ドイツによる国威発揚を図る国策と資金支援を受けたメルセデス-ベンツとアウトウニオンのシルバー軍団が猛威を振るうことになる。新進小コンストラクター、E.R.A.がヴォアテュレット1.5リッターフォーミュラで戦うことになったのは、むしろ僥倖と言えるだろう。

第1期E.R.A.にはA、B、C、D型があるが、基本的設計は共通で、原型Aと発展型Bだ。それも同じ車のサーキットでの改良が大半だ。

レイモンド・メイズが提供してくれた資料と写真により、最初のE.R.A.ストーリーを書いたのは1974年だが、その時点でAタイプ4台、Bタイプ13台、合計17台製作され、うち16台が現存していた。モンタギュー・ミュージアム入りしたビラ王子の"ロミュラス"以外の全車が、ヴィンテージ・レーシングで走っていたのは驚きだった。梯子型フレーム、前後板バネ、リジッドアクスルのシンプルな構造による頑丈さ、耐久力である。

1935〜38年がE.R.A.ワークスとプライベート参加者にとって最良の時期であった。ヨーロッパ大陸では、頻繁なグランプリ規則変更にかかわらず、猛威を振るうドイツ勢との対決に、伊・仏勢に嫌気がさしてきた。特にアルファロメオとマセラティがGP2ヴォアテュレットに注力し始めた。アルファロメオは、名車ティーポ158、マセラティは6CM、4CTを投入した。

E.R.A.も手を拱いていた訳ではない。メイズ、バーソンは、マーレイ・ジェイミソンのゾーラー遠心型スーパーチャージャーを用いたCタイプを仕上げた。新型車ではなく、Bタイプに改造エンジンを積み、フロントにポルシェ特許のダブルトレーリングアーム独立式サスペンションを組み付けた。ギアボックス上に取り付けた遠心式過給器は、高回転パワーは出るが、低中速トルクが細く、また信頼性に欠けた。E.R.A.社主ハンフレー・クックは、Cタイプを好まず、ワークスのみに用いった。メイズ、バーソンは、改良を信じ、メイズ所有の車を実戦実験台として開発を続けた。これが唯一のDタイプだ。

1939年、イタリア自動車クラブは、ドイツ勢排斥の意図で、トリポリGP(当時植民地、現リビア)をヴォアテュレット規則で開催した。エントリー締め切りギリギリの発表だったが、シュツットガルト"諜報部"は、いち早く動きを察知し、新型W165、1.5リッターV8を開発していた。トリポリのグリッド1、2位に並んだのがW165で、レースも1-2ウィンを果たす。アルファロメオ6台、マセラティ22台という物量作戦も、2本銀の矢にあえなく敗退に終わった。

E.R.A.が後継車として構想したのがEタイプだが、不幸なことに設計者ジェイミソンがブルックランズでレース観戦中、クラッシュ暴走事故に巻き込まれ死去する。バーソンが設計開発を引き継ぎ、2台のEタイプを製作した。設計思想はドイツ車に範をとったが、所期の性能は出なかった。メイズは、Eタイプ開発ドライバーを勤めたが、投資家社長であったクックとの間に戦略上のきしみが出て、上流階級らしく、「友好的に」袂を分かつ。メイズは、実験車R4Dを買取り、プライベートとしてレース活動を継続した。バーソンは、航空産業に戻って行った。

第2次大戦後、E.R.A.ブランドとEタイプ2台は、富豪レスリー・G.ジョンソンに売却される。1台は1950年マン島レースでクラッシュ炎上、もう1台はドニングトン博物館に現存する。

文、写真:山口京一 Words and Photos:Jack YAMAGUCHI

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