たった1台だけ存在したレース専用のランボルギーニ・ミウラ!?

Octane UK

フェルッチオ・ランボルギーニはレースを嫌ったことで有名だが、1台のミウラがその監視の目をくぐり抜けた。

フェルッチオ・ランボルギーニのレース嫌いはとても激しく、それゆえに多くの実力者たちが彼の元を離れていった。しかもダラーラ、スタンツァーニだけでなく、ビッザリーニをもサーキットから遠ざけておくのは、たいへんなことだったろう。だが、スイス人のオーナーで現在84歳のカール・フォイテクは、思いとどまらず自身のミウラでレースしただけでなく、フェルッチオ本人との友人関係も継続させた稀有な存在だ。

カール・フォイテクは『Octane』に対して以下のように語っている。
「私はチューリッヒ最大のジャガー・ディーラーのエミール・フェラーリの元でメカニックとして働き始め、そこにはXK120のレーシングカーがあった。そのジャガーの手入れを一所懸命頑張ったら、ご褒美にベルンのサーキットを数周走って楽しんでこいと言われたんだ。それで実際走ってみたら、なんとプロのドライバーたちより速かったよ。その後、1956年にオースティン・ヒーレーでデビューして、レースのキャリアを始めた後、出場した400のレース中で200 回優勝し、スイス・チャンピオンを4 回獲得した」

「1964年に、スイスでのランボルギーニのインポーターになって、初めてミウラを見たときのことはよく覚えているよ。私の目には、これまでで最も美しく、素晴らしい車に映ったね。1969年に私はレースが売上に貢献すると考え、ランボルギーニがデモカーとして譲ってくれた私の400Sで、ホッケンハイムのツーリングカー選手権に出場したんだ。私のミウラはボンネットの色をわざと変えていたから、見分けやすかったはずだ。プラクティスで最速ラップを出してポールポジションでスタートしたんだが、ミウラは良くも悪くも正にレーシングカーそのものだったな」

「そのレースでは、電気系統の故障でリタイヤせざるをえなかった。一番大きな問題のひとつは、180度の右カーブ、オストクァヴェ(東側のカーブ)で起きた。オイルポンプが横Gに耐え切れず、油圧がゼロになってしまったんだ。ミウラでのレースは、それが最初で最後になってしまったよ」

「フェルッチオは、この件については大して気にしないでいてくれた。それはおそらく、私が最も優れたセールスエージェントのひとりだったからだろう。1971年に私がフェラーリの販売に鞍替えするまで、合計で330 台ほど売ったよ。そのうちミウラは36~38台だったかな」

カール・フォイテクは、このレース用ミウラのシャシーナンバーを覚えていないが、おそらく3796か3922であろう。一体今はどこにあるのだろうか。

Words: Massimo Delbo  編集翻訳:伊東 和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation:Kazuhiko ITO(Mobi-curators Labo.)

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