「未レストア」真の遺産であるフェラーリ・デイトナを走らせる

Photography:Winston Goodfellow



このデイトナ・スペチアーレ(シャシーナンバー12585)がパリ・サロンでお披露目されたのはその翌年の1969年だ。アンジェロ・ティート・アンセルミ著の権威ある書籍『Le Ferraridi Pininfarina』によれば、この車は初期型デイトナ・スパイダーのボディをベースにショーモデルに改造されたものだという。

明らかな違いはステンレススチール製ロールバーを持つ白い固定式ルーフだ。リアウィンドウは初期のポルシェ911タルガのように脱着式で、リアエンドは微妙に変更されていた。リアのライト類はより低く装着され、またトランク周辺も市販モデルより深くえぐられている。フロントには初期型デイトナの透明プレキシガラスカバーを持つ固定式ヘッドライト、ボディ側面まで回り込む長いバンパーが備わり、室内は特別製のバケットシートとドアパネル、センターコンソールが特徴的だ。



『ロード&トラック』のパリ・サロンの記事はこのワンオフ・スペシャルを「控えめで気品あふれるモデル」と評したが、この車が登場した頃にはもうひとつのトレンドが萎みかけていた。デイトナの飛び抜けた性能は、ミドシップ・ブームを1970年代後半まで先送りすることになったが、このスペシャルモデルはカスタム・コーチワークの時代の終わりを告げることにもなった。メーカー公認のワンオフ・モデル、あるいはスタンダードシリーズ以外のスペシャルモデルは1969年までに事実上絶滅してしまったのである。

そのひとつの理由は人件費だ。イタリアの職人の給与は1960年代を通じて上昇しており、そのいっぽうで顧客はより洗練され、より快適な車を望むようになった。これらは当たり前だが、特別仕立ての4輪付き"スーツ"を作るには不都合なのである。さらに1968年には米国の安全規則が導入された。ランボルギーニは1960年代半ばにはごく限られた数のカスタムモデルを製作していたが、1968年初めのミウラ・ロードスター(ベルトーネ)限りで手を引き、マセラティもゲームから降りてギブリのような洒落たGTに集中することになった。そして1950年代から60年代にかけてカスタム・コーチワークの主役だったマラネロもまた、1967年の365カリフォルニアと
4台の330GTCスペチアーレを最後に、そのビジネスから事実上撤退することになった。

1970年代に入ると、カスタムボディのフェラーリはピニンファリーナのデザイン・スタディか、古いシャシーの上にコーチビルダーが別のボディを架装した"非公認"モデルぐらいに限られてしまった。しかもその後の2度の石油危機によって経済は低迷し、厳しくなるいっぽうのエミッションや安全規制の前には生き延びるのに精いっぱいという状態だった。カスタム・コーチワークが復活するには、それから20年以上の歳月を要したのである。ただし、その時は復活したブームを知る人はほとんどいなかった。開発テストはすべて夜間に行われたし、生まれたモデルはブルネイ王室のガレージに収まったからである。
 

編集翻訳:高平 高輝 Transcreation:Koki TAKAHIRA Words:Winston Goodfellow

無料メールマガジン登録   人気の記事や編集部おすすめ記事を配信         
登録することで、会員規約に同意したものとみなされます。

RECOMMENDEDおすすめの記事


RELATED関連する記事

RANKING人気の記事