F1史上最悪と言われる事故からの復活│ニキ・ラウダとフェラーリ

Octane UK, Formula 1

ニキ・ラウダはそのキャリアの絶頂期にF1史上最悪と言われるアクシデントに遭遇した。だが、彼はそれで引退するどころか、死の淵から再びレースの世界に戻って来たのである。

1976年、ニュルブルクリングでのドイツ・グランプリでラウダは最速のドライバーだった。それにもかかわらず、彼はサーキットの安全対策に不備があるとして、レースをボイコットするように仲間のドライバーを説得していた。しかしほとんどのドライバーはラウダに同調せずボイコットに反対したためにレースはそのまま開催され、そしてF1最悪の事故は起こった。

スタート後2周目、ベルクヴェルクの手前の高速左コーナーでラウダのフェラーリはコースアウトして土手に衝突、火に包まれた。他のマシーンと絡み合ってつぶれたマシンの中に閉じ込められてしまったラウダは、勇敢にも炎の中に飛び込んだアルトゥーロ・メルザリオ、ブレット・ランガー、ガイ・エドワーズ、そしてハラルト・エートルによって引っ張り出されたが、その時はすでに酷い火傷を負い、有害なガスを吸い込んでいた。事故直後は意識があったラウダだが、その後、昏睡状態に陥ってしまう。

ラウダが残りのシーズンを戦うことは不可能と判断したエンツォ・フェラーリは、すぐさま代わりにカルロス・ロイテマンと契約を交わしたが、わずか6週間後(3レース分)のモンツァの記者会見にラウダは包帯を巻いたまま姿を現した。それどころか、もちろん完全に回復したわけではないのに、AGVの特製ヘルメットを被ってそのイタリアGP で4位に入賞してみせた。著名なF1ジャーナリストのナイジェル・ルーバックは、ピットの中で血が滲んだ包帯を巻き替えるラウダを見かけたという。

ラウダの不在の間、ジェームス・ハントは選手権ポイントを積み重ねていた。カナダとUSGPを制したハントは、シーズン最終戦の日本グランプリを前にラウダに3点差に詰め寄っていた。富士での予選ではラウダは3番手、ハントは2番手、だが決勝レースは豪雨に見舞われ、ラウダはスタートから2周後にリタイアすることを決めた。そんな状況で続けるのは危険だと考えたのである。結局ハントは3位に入り、1ポイント差で逆転してチャンピオンの座を手に入れた。

ラウダの決断は世間から評価されたものの、エンツォ・フェラーリはその行為に激怒した。ラウダならばあの状況を克服し、完走できたはずだと彼は信じていたし、実際にレース終盤になって天候も回復していた。だがラウダはそうせず、タイトルを投げ出してしまった。エンツォは何よりも面目を潰されることが大嫌いだったのである。

ラウダとエンツォの誰も割り込めない強い絆は不意に断ち切れてしまった。翌1977年はタイトルを再び獲得したにもかかわらず、彼にとっては辛いシーズンだった。ラウダは後に語ったように、新たなチームメイトのロイテマンを嫌っていた。「我々はもう互いに我慢できなかった。プレッシャーを軽くするどころか、ロイテマンをチームに加えることでさらに圧力をかけてきた」と、シーズン終了後にフェラーリを去ることを明らかにした時、まだ2戦を残していたが、すでにチームのエースはロイテマンであり、さらに無名のヴィルヌーヴもサードカーを与えられてカナダGPに出場していた。

1978年、ラウダは100万ドルという当時は聞いたことがないような高額サラリーでブラバムに移籍したが、続く2シーズンはリタイア続きで満足な成績を残せず、79年のカナダGPで引退を発表する。母国に戻って、フェラーリを辞めた後に設立した自分の航空会社ラウダ・エアの経営に専念すると言われていた。

ところが1982年、ラウダはマクラーレンでカムバック、1984年にはチームメイトのプロストに0.5ポイント差をつけて3度目のチャンピオンに輝いた。最初の引退から5年後にフェラーリを打ち破ったことには"コメンダトーレ" も目を見張ったに違いない。

もっともその後は1勝を挙げただけで、翌年のオーストリアGPで再度引退を発表した。ラウダはまたもエアラインの経営者に戻ったが、そこでエンツォはすかさず、ルカ・ディ・モンテゼーモロに、彼を不振のF1チームを立て直すためのコンサルタントとして雇うように進言したという。間もなくマラネロでの会談がアレンジされ、ラウダは正式にはフィアットのPR部門と契約を結ぶことになった。もちろん宣伝効果を充分に期待してのことである。

編集翻訳:高平 高輝 Transcreation:Koki TAKAHIRA Words:Joe Sackey

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