無敵を誇った「ランチア・ストラトス」という伝説|1977年モンテカルロ・ラリーのクルー全員の再会

1977年ランチア・ストラトスHF(Photography:Matthew Howell)



突然の暗転
もっとも、No.1カーのクルーにまったく何の問題もなかったわけではない。ほとんど勝利を確信したフィニッシュ間近に降りかかった災難を思い出すと、マイガは今も身震いするという。

「ラ・トゥルビーからマドーネ・ドゥ・ゴルビオ峠に向かう登りの道で、ライトがすべて消えたんだ。ラリー最後の夜で、周りに灯りはまったくなかった」

不幸中の幸いというべきか、小悪魔が現れたのはスペシャルステージ中ではなく、ロードセクションだった。コドライバーは自分の目の前にあるヒューズボックスを引っ掻き回し、ドライバーは道の方向を何とか見定めようと並木のてっぺんを見上げて走ったという。

「あれは人生最悪の10分間だった」とはマイガの言葉である。

ストラトスのクルーに幸運なことがもうひとつ、マイク・パークス率いるファスト・レスポンス・サービスチームが駆けつけ、部分的にだが解決することができたのだ。パークスは英国人の元グランプリ・ドライバー(1960年代にフェラーリで活躍)だが、開発エンジニアとしても優秀でストラスの開発に携わっていた。

「チュリニ峠のスタートにギリギリで間に合った。チュリニは言うまでもなく最も重要なラリーの最も重要なステージだ。しかし、その時点で我々の車のライトは6個のうちの2個しか点いていなかった」

完璧主義で知られるムナーリは、マシンに対してもメカニックに対しても要求が高かった。だが状況はまるで理想的ではなかった。

「もちろんあの時のことはよく覚えている。故障したライトのせいで、コース脇の雪壁を正確にとらえることができなかった。しかし、トレーニングやテストが物をいうのはまさにそんな時だ。走るステージはよく知っていたし、どんなコンディションなのかも予想できた。ただベストを尽くし、できる限り速く走り、それが十分に速いことを祈るだけだった」

そして彼は十分に速かった。「勝つ可能性があった有力マシンは25台から30台はいたと思うが、我々はどの車よりも速かった」とマイガは誇らしげに語った。「ゴール後、モナコの王宮でレーニエ大公と美しいグレース妃からトロフィーを授与されたが、残念なのはその時はそれがどれほど大きな勝利だったかを正確に理解していなかったということだ。いつもと同じような、一所懸命に働く日の延長だと思っていたんだ」

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