無敵を誇った「ランチア・ストラトス」という伝説|1977年モンテカルロ・ラリーのクルー全員の再会

1977年ランチア・ストラトスHF(Photography:Matthew Howell)



影の立役者たち
ドライバーとナビゲーターだけでラリーに勝つことはできない。ここに紹介するのはランチアの栄光を支えた男たちである。

編集翻訳:高平高輝 Transcreation:Koki TAKAHIRA Words Massimo Delbo Photography Matthew Howell


ラリーにおけるランチア・ストラトスの偉業は、無論サンドロ・ムナーリとセルジオ・マイガのふたりだけの功績ではない。チェーザレ・フィオリオ率いる当時のランチア・レーシングチームは、その能力と経験、情熱すべてにおいて最高のチームとみなされていた。その一員だった最高のエンジニアとメカニックが、1977年モンテカルロの興味深い思い出を語ってくれた。

フィアットは131の勝利を望んだ
「モンテカルロは最も重要なラリーだった。というのも世界中のメディアが注目していたからだ」と言うのはフィオリオその人である。

「我々はすでにフルヴィアで勝利を挙げていたが、その時は単に幸運と言っていいものだった。続いてストラトスでも勝ったが、監督としてはその1976年のラリーのほうがもっと難しいものだった。ドライバーに順位をキープするように指示したところ、ムナーリの後になることを納得しなかったワルデガルドが従わなかったからだ。彼を諦めさせるために、ドライ・ターマックのステージの前にスタッド付きタイヤを彼の車に装着しなければならなかった…」


「1977年イベントの最大の問題はタイヤだった。800本ものタイヤの中から、変化するコンディションに最適なものを選ぶのは簡単ではない。まるでハリネズミのようなタイヤを履いたストラトスは、雪の上でも80mで止まることができた」

「それに次ぐ重要な仕事は"ファスト・アシスタンス"をどのように走らせるかということだった。山中の上に大雪のため、無線はほとんど通じなかった。そこで我々はイタリア空軍に協力を求め、飛行機を2機飛ばして、無線の中継所として使ったんだ」

ストラトスの生みの親のひとりであるエンジニアのジャンニ・トンティも1977年モンテに派遣されたひとりだ。

「スタートの時の気持ちは今もよく覚えている。大雪のためにギャップからモンテカルロに至る最初の3ステージはキャンセルされたほどだった。私たちは自分たちの車が最高であることを知っていたが、フィアットが131での勝利を切望していることも知っていた。政治的には私たちは難しい立場に立たされていた」

「ピレリを履いたワークスカーが3台、ランチア・フランスのサポートを受けたベルナール・ダルニッシュのもう一台はミシュランを装着していた。ストラトスはスタート直後か頭抜けて速かったが、その後ラファエーレ・ピントが雪壁に突っ込んで6分を失い、ダルニッシュもクラッシュしてしまった。それ以上のアクシデントを避けるために、フィオリオとフィアットチームを率いるダニエーレ・アウデットが話し合って、チームオーダーを出すことになった。131の中で最速だったアンドリュエはその決定に不満だったけどね」

「サービス地点で準備している最中に、目の前の道路の白線も見えないぐらいの濃い霧が立ち込めてきた。ドライバーたちはそんな状況でも晴れた日と同じようなステージタイムで走るんだ」

「私はムナーリのライト・トラブルを修理したサービスエリアの責任者だった。わがチームの最高の電気技師である"シンティラ"とムナーリの到着を待っていた。ほとんどライトがつかない状態でチュリニ峠でのサンドロの様子を聞いて本当に驚いたものだ。我々の技術部門にはたったのふたり、それに対してフィアットは100人以上、それでも私たちが勝った」

メカニックたちの仕事が勝利を左右するのは言うまでもないが、中でも1977年モンテカルロのスターはアントニオ・ジャネッリ、通称"シンティラ"だった。

「私はトンティと一緒にチュリニ直後のペイユのサービス地点で待ち構えていた。サンドロのトラブルについてパークスから聞いていたので、その準備を整えて待っていた。ダッシュボードの下に潜り込んで、焼けたリレーとフューズを交換するのに4分しかかからなかったと思う。それほど難しい作業ではなかったが、逆さまになって窮屈な姿勢で作業しなければならなかった。すべて点灯したライトで走り出す時のムナーリとマイガのホッとした顔は忘れられない」

ジョバンニ・ガリボルディは1963年から1981年までピレリタイヤ担当のエンジニアだった。

「1977年モンテのために我々は新しいBS(Battistrada Separato:スプリットトレッド)タイヤを用意していた。これは軽量化のために小さなスタッドを使用するタイヤだった。ストラトスは基本的にタイヤに負担をかけない車だった、走行後のタイヤを見れば誰が使ったものかすぐに分かる。ムナーリのものは新品のようだったけれど、ピントのは明らかにひどく減っていたからね」

「他にも"5C"という標準より幅の狭い、527本のスタッドが固い雪面に食い込むタイプのウィンタータイヤと、さらにCN36のスペシャルタイヤも用意した。これはスタッドをトレッドに内蔵したものだった。ミックス・ステージは普通ターマック、スノー、ターマックの順に変化する。そこでスタートして山を登る時にはターマックタイヤで、ラバーが減るとスタッドが効果を発揮し始め、下りでタイヤ温度が上がるとピンが抜けて再びターマックタイヤになるというものだった」

仲間からは"ピエロ・ストラトス"と呼ばれる名メカニック、ピエロ・マリオ・スプリアーノは、1976年モンテでムナーリのギアボックスを記録的なタイムで修理した男である。彼は正式なランチアの社員ではなかったが、その経験は他に代えがたいものだった。

「私はビエラのマリオーリの工場でメカニックとしての経験を積んできた。だからストラトスは毎日の食事のようなものだった。トンティが信頼してくれて私たちはワークスチームと一緒に仕事をする機会が多かった。1977年のモンテではダルニッシュのシャルドネ・ストラトスの担当だったが、実際はワークスのメカニックと一緒に区別なく働いた。本番の前にフィアット242バンでローマからすでに2000kmは走っていた。当時をひと言で言うなら"不眠不休"だね」

「私たちは幸運だった。ストラトスは簡潔で信頼性が高く、通常の作業をするだけでよかったからだ。今振り返ってみて惜しいことをしたと思うのはふたつだけ。ひとつはあのイベントで写真を撮らなかったこと。私たちにとっては、あのモンテカルロも、いつもと同じ仕事の日だったのだ。もうひとつは1984年に自分のストラトスを英国で売ってしまったことだ。3500万リラだったから、およそ1万7000ポンドだよ!」

1977年ランチア・ストラトスHF
エンジン形式:エンジン:2418cc、V6、DOHC、クーゲルフィッシャー燃料噴射
最高出力:270.290bhp/8500rpm
最大トルク:255Nm(188lb-ft)/6500rpm

トランスミッション:5段MT後輪駆動 ステアリング:ラック&ピニオン
サスペンション(前):ダブルウィッシュボーン、コイルスプリング、
テレスコピックダンパー

サスペンション(後):マクファーソンストラット/ロワーウィッシュボーン、
ラジアスアーム

ブレーキ:ディスク 車両重量:960kg
性能:最高速度130mph(209km/h)/0-60mph加速4.8秒

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