フィアットの帝王が作り上げたフェラーリでイタリア国立自動車博物館へ行く

フェラーリ166MMトゥーリング・バルケッタ



ちょうど中で結婚式が行われていたが、残念ながら、魔法の言葉をもってしても私たちが式に招待されることはなかった。だが、周辺はドライブを楽しむのに理想的な場所だった。アニエリ家は1811年からここに住んでいる。同じ名前の祖父ジョヴァンニ・アニエリ(区別するために孫のアニエリは短縮形の"ジャンニ"と呼ばれた)は、所有地で養蚕を営んで、フィアット創業時の元手を作ったといわれている。今もひなびた農村の風情が残る地域だ。山裾に広がる丘陵地帯に小さな村々が点在し、時折、風格あるマナーハウスが現れる。それを、たいていはきれいに舗装されたワインディングロードが結ぶ。

166はここが大いに気に入ったようだ。走り始めれば気まぐれな下の2段の存在は忘れられるし、走行距離が伸びるにつれて、他のギアとも上手くつきあえるようになった。ブレーキには製造年代に見合う性能しかないことと、どんなテクニックをもってしてもシフトが硬いことを除けば、ステアリングもシャシーも安定していて信頼できる。だが、なんといっても心を奪われたのがエンジンだ。スロットルを軽く踏むだけで、レスポンスは温めたハチミツのように滑らかだ。出力では現代の平均的なハッチバックにもおよばないが、誰も気にしないだろう。アニエリはずっとのちに、「ドライブした車の中でも最初のフェラーリが忘れられない」と言っているが、この控えめな表現に込められた愛情にも心から共感できる。

アニエリ以降のヒストリー
アニエリの所有期間は短く、0064Mは1952年に売却された。ちょうどその頃、アニエリはリヴィエラの別荘の近くで大事故を起こしている。右足に障害が残ったため、やがて2ペダルのオートマチックを好むようになった。この事故をフェラーリで起こしたという説もあるが、信用はできない(0064Mだという説はなおさらだ)。調査報道で知られる記者のジュディー・バックラックは、家族を知る大勢の関係者に取材して『VanityFair』誌にアニエリの伝記を寄せており、その中で、事故を起こしたのはフィアットのエステートワゴンだったと書いている。アニエリがエステートワゴンを好んでいたのは有名な話だ。

一方、0064Mは無事に第2のオーナーであるベルギー人のヴィスコント・ジェリー・ダンドクールの手に渡った。ダンドクール自身も時折レースに出たが、のちにフェラーリで4度のル・マン王者となる同郷のオリビエ・ジャンドビアンも、この車でレースを戦い、1953年にスパでフェラーリでの初勝利を挙げると、その後も好成績を収めた。だが、0064Mは1956年に売却され、あとはおなじみのパターンをたどる。短期間で何度か人手に渡り、1957年までアマチュアレースに出たあとは、しばらくロードカーとして使われ、やがてくたびれた姿で隠遁生活に入った。

変化が訪れたのは、ベルギー人のジャック・スワターズがオーナーになってからだ。スワターズは元レーシングドライバーで、有名なレーシングチーム、エキュリ・フランコルシャンの設立者であり、ヨーロッパでも有数のフェラーリディーラーだった(0064Mの売買も5、6回仲介したとスワターズは回想している)。

編集翻訳:伊東和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation:Kazuhiko ITO(Mobi-curators Labo.)原文翻訳:木下恵 Translation:Megumi KINOSHITA Words:Dale Drinnon Photography:Martyn Goddard

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