小さくも大きな革新をフェラーリにもたらした1台「ディーノ」

Photography: Ian McLaren

ディーノはフェラーリ社としては「初めてづくし」の車であった。V6エンジンは初めて。ロードゴーイングカーとしてのミッドシップも初めて。まして大量生産への取り組みなど、やったことがなかった。それまでのモデルとは全く性質の異なる車だが、流れる血は、まさしくフェラーリから継承されたものである。

1947年の創業以来、正真正銘のフェラーリといえば、V12エンジンを搭載したモデルのことを意味した。しかしながら、その流れはミッドに小型のV6エンジンを搭載したディーノ206GTの登場で大きく変わっていく。ディーノに対する市場の好評価により、フェラーリのコンセプトは「パワー」から「パフォーマンス」と「スタイル」の両立という方向性へとシフトすることになった。



ディーノを発表した1968年、フェラーリ社はフロントエンジンへのこだわりを捨てた。その新しい車に“馬”のエンブレムはなく、フェラーリという車名を冠されることはなかった。さらに、ディーノのエンジンは親会社であるフィアットの車にも使われた。エンツォの狙いとは、一体何だったのだろう。

ディーノとは、実はエンジンの名称である。後に名機と称されるそのレーシングエンジンは、1950年代にエンツォの息子であるアルフレード・ディーノと、伝説的なエンジニアとして知られるヴィットリオ・ヤーノによって開発されたもの。アルフレッドはその完成を見る前に筋ジストロフィーという病で亡くなってしまったが、彼のエスプリは確実に引き継がれたのである。

エンツォは息子の死を嘆き悲しんだが、やがてそのエンジンを使ってレースに勝つことを考えた。当時ホモロゲーション獲得の条件は、最小生産ロット500台であった。フェラーリのような小さいメーカーにとっては、その台数規定をクリアすることは非常に難しい条件である。従って1967年の1.6ℓフォーミュラ2シリーズでは、生産台数を稼ぐため、フェラーリ社はフィアットに自動車の製造を依頼した。ディーノのエンジンがフィアットの車に使われたのはこのためだ。



一方で、カーデザイナーのセルジオ・ピニンファリーナは、1965年のパリ・サロンに出展するためのコンセプト・フェラーリの開発を任命され、デザインを手がけることとなった。そのプロトタイプ、206SPに対する観衆の反応は、パリ・サロンにおいても翌年のトリノショーにおいても素晴らしく、1967年、ついにディーノの名を冠したロードカー、ディーノ206GTが市販化されることとなった。

ディーノ206GTはフェラーリの顧客に支持されて瞬く間にヒットした。デザイン的にもエンジニアリング的にも優れていただけではない。同時代のV12フェラーリ、365GTB/4デイトナの9000ポンドという価格に対して、ディーノ206GTはたったの5500ポンドという設定だったのだ。ディーノの成功は、フェラーリが小規模のレーシングカー・ファクトリーから、高級でエキゾチックなスポーツカーのメーカーへと発展するきっかけとなった。アルミ製ボディをまとった206GT は1968~69年の間に157台が製造された。

1969年にフィアットがフェラーリの経営を握ったことは、エンツォにとって好都合なことだった。彼が専念したいと願っていたレース事業はフェラーリ社が担当、また量販車製造はフィアットが受け持つことになり、結果としてディーノはフィアットの工場で生産されることとなる。

1970年に投入されたディーノ246GTは、大量生産ラインに対応するためにボディがスチール製に変更された。排気量は2.0ℓから2.4ℓへと拡大され、最高出力も160bhpから195bhpに、また最大トルクは138lbから166lbへとパワーアップした。このため、重量が当時のポルシェ911より少し重い1077kgへと増えたにもかかわらず、走りのパフォーマンスは大幅に向上した。246GTの0~60mph加速は7秒、そしてトップスピードは143mphを誇った。

編集翻訳:編集部 Transcreation: Octane Japan 原文翻訳:数賀山まり Translation: Mari SUGAYAMA Words: Robert Coucher 

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