特別なヒーレー100に施されたレストアとは?そのすべてを解き明かす!

Photography: Stuart Collins

ヒーレー100には、オースティンが生産を引継ぐ以前にヒーレー自身によって製作された19台のプリプロダクションモデルが存在する。これはその中の貴重な生き残りの1台で、プロダクションモデルとの49の違いをすべて保存または再現してレストアされた。

ヒーレーについて多少でもご存知であるなら、この頁のAHX11には溜息を禁じ得ない筈だ。一見するだけでは他のヒーレー100と同じように見えるかもしれないが、これは特別だ。実はこれはオースティンのロングブリッジ工場ではなく、コベントリーに程近いワーウイックにあるヒーレーモーターカーカンパニーのこじんまりした工場で製造された19台のうちの6番目の車で、1953年トリノショーの出展車そのものなのだ。



最初から話そう。ドナルド・ヒーレーが1952年のアールズコートモーターショウでヒーレー100の生産契約について当時のオースティン社長のサー・レオナード・ロードと合意した際、彼の作業分担は、半年以内にプロトタイプを量産型に完成させる事と、世界各国でのセールスプロモーション用のプレスカーを作ることだった。そして週に20台の生産計画は程なく5倍以上に膨れ上がりヒーレー社と付き合いのあったコーチビルダーのティックフォードがボディを担当するという計画は頓挫した。ヒーレーのエンジニア達は製造工程、車両の設計を見直していたが、彼らが知らないうちにボディは、簡略化のための設計変更を勝手にやってしてしまう可能性のあったジャンセンに外注に出されていた。オースティン側は新しいプロダクションラインを施設する時間が必要だったが、アールズコートでの発表後事態はすでに動き始めていて、止めることは不可能だったのだ。



当初50台のプリプロダクション生産が計画されたが、1953年3月にオースティンに生産移行する時点では19台だけが組み立てを完了していた。後年専門家たちが、これらが量産モデルとどう違って、実際上49の相違点は何なのかを認識するに従い、これらの重要性は高まった。



全てのワーウイック製ヒーレーはAHXまたはAHR(4台だけ作られた特別製のテストカー)で始まる製造番号が与えられた。最初の3台はアメリカに出荷され、1台の現存が確認されている。AHX4 はフランクフルトショー用に、AHR5はジュネーブのために製作された。後者は後年アメリカに送られて現存。AHR6 はNOJ392で登録され、英国の車雑誌で有名になったプレスカーで現存。AHR7は100S仕様に改造されNOJ393の登録で1953年と1955年のルマン24時間に出場した。2011年にぼろぼろながらオリジナルの状態で発見され、同年12月のオークションでレコードプライスの£843,000で落札されている。AHX9は残念なことにMIRAでのテスト後1955年にスクラップされた。AHX10はミステリーだ。一説には実はこれは作られなかったとも言われている。

今回の車AHX11は1953年の4月1日に製造番号で登録され、ジェフリー・ヒーレーと妻のマーゴットの運転で1953年のトリノショーのためにイタリーまで自走した。奇妙なことにこの車の製造番号はAHX10で、それがAHX11のスタンプで訂正されていて、「AHX10は作られなかった」という説を裏付けている。

全てのワーウイック製モデルと同様、ドナルド・ヒーレーが好んだジャガーのアイシスブルーに似たライトメタリックブルー。トランクの開閉は通常のハンドルではなく室内のオープナーになっていて、これはショウ展示中に所持品が盗難されないようにというジェフのリクエストであったらしい。AHX12,13,14の3台もアメリカに送られて現存。AHX16はNUE854で登録されレーシングドライバー、ベティ・ヘイグに納車後現存。AHX15,17,18,20は行方不明。全現存車10台中最もオリジナルを保っていると言われているAHX19、NUE855は英国南部で健在だ。

編集翻訳:小石原 耕作 Transcreation: Kosaku KOISHIHARA Words: David Lillywhite 

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