北京からパリまで8か国1万2000kmをクラシックカーで巡る過酷なラリーに挑戦

Photography:Gerard Brown




当時は、地図などなく、方位磁石だけが頼りだった。ここでは貨幣を持っていてもなんの役にも立たない。棒状の銀塊を削り取って、食料と交換した。道らしい道もなかった。あるのは井戸や山羊の囲いへ続く遊牧民の通り道だけだったが、そこにはサッカーボールほどもある岩がごろごろしていた。

現在では、現金も本来の役目を発揮できたし、ルートブックも用意されていたが、井戸や小川でラジエターの水を足す点では、1907年の勝者であるシェピオーネ・ボルゲーゼ侯爵と同じだ。思わず「この道を走った者はいまだかつて誰もいない」とつぶやきたくなる。タイヤに踏みつけられた草の香りが立ちこめるモンゴルでは、臭いまでも地球上のどことも違い、あたかかも、ひとり大西洋を小型ヨットで渡る冒険家のような孤独を感じる。何千マイルも広がる大草原に続くタイヤ痕が、その航跡だ。



前にも後ろにも仲間の姿がない単独走行を続けていると、90数台の仲間はどこへ行ってしまったのかと心配になり、GPSへの信頼が何度も揺らぐ。機器が壊れているのか、あるいは操作を誤っているのではないか、そう疑うのだ。だが構うものかと開き直る。はるか遠くに見えるあの山を左から右へ回り込んで進めば、たとえほかの車が全員右から回り込んできても、結局はまた出会うはずじゃないか、と。

参加車両の距離はすっかり広がり、40km以上も遅れている車もあるが、日没までに集合地点に到着しなければならない。明日のための燃料を積んだタンクローリーを見つける必要がある。そこには炊事車に乗った総勢40人からなるチームが食事を用意し、トイレの穴を掘り、湯を沸かす火を起こしてくれるのだ。熱いシャワーもある。これ以上、気持ちを奮い立たせるものがあるだろうか。



ときおり、赤いシャツを着たタイムキーパーに出会い、タイムカードを提出する。「ほかに誰か来たかい」と聞くと、たいてい、この道を来たのは1、2組だけ、しかも数時間前に通過したという答えが返ってくる。
 
モンゴル中央部は、1907年にボルゲーゼとその仲間が最初のラリーで旅した頃と変わらず、いまだに辺境の地だ。毎日、燃料と食料の供給を受ける必要があるが、それは立ち往生しなければの話だ。実際、一番頻繁に浮かぶ心配は、燃料と食事のことだ。

モンゴルを抜けてロシアに入ると、地元の自動車クラブがタイムトライアルを用意して待っていた。そこは埃っぽいダートコースだった。ロシアの大草原も、人けがない点ではモンゴルと変わらない。ロシアであることを知らされるのは、モンゴルの象徴であったゲルの代わりに、壊れそうな丸太小屋が現れたときだ。ウクライナに入ると、歓声を上げる大観衆に迎えられた。ウクライナの自動車連盟の手配によって通行止めになっている市街地の通りを行くと、何度もフォトグラファーや撮影隊に取り囲まれた。



そこからは、スロヴァキア、オーストリア、スイスと人々の歓迎に迎えられた。封鎖したスイスの山道は油断ならないコースだった。

北京を出発した96チームのうち、フランスへたどり着けなかったのは8組だけだった。パリ中央のヴァンドーム広場に乗り入れ、ついにエンジンを切ったときの安堵感は、とても言葉にできない。旗が振られ、愛する者が出迎える。32日間走り続けてきた大冒険を締めくくるシャンパンの味は格別だった。表彰式のディナーでは、胸躍る冒険と挑戦の物語があちこちで交わされた。かつて、イターラから降り立ったボルゲーゼ公もこう言った。「諸君は正しかった! このルートを自動車で行くのは、およそ不可能である」と。

編集翻訳:伊東 和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation:Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下 恵 Translation:Megumi KINOSHITA Words:Glyn Tucker 

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