ミニ使いの達人ドライバーが振り返る刺激的なレース人生│ミニからF1まで

Photography: Lyndon McNeil / Neil Godwin-Stubbert

ミニ使いの達人として知られるツーリングカーの名レーシングドライバー、ジョン・ローズがクーパー・ティームやミニからF1に至るまで、豊かで刺激に満ちた彼のレース人生を振り返る。いつもタイアから激しく〝スモーク"を上げて走り過ぎていく彼を、観客は親しみを込めて〝スモーキン"ジョン・ローズと呼んだ。

「よく信号で自分の反射神経を試したものさ」とツーリングカー・レースの巨人、ジョン・ローズは笑った。「信号が黄色から青に変わるあの一瞬が、タイヤに"火を付ける" には重要な時間だった。ダンロップのレース責任者イアン・ミルズは、ミニのタイヤがもつか、眠れなかったほどさ」


彼の名前が出ると、クーパーSが斜めを向き、ゴムがまるでフランベされるようにフロントタイアから"スモーク" が上がっている映像がすぐに思い浮かぶ。1960年代の大半、"スモーキン"はイギリスのサルーンカー選手権の常連で、1965年から68年まではクラス・タイトルで4連覇した。

「とにかくレースができて本当に愉しかった」と彼は笑顔を見せる。

「重要なのは、レースで勝てるようになった時にはもう30代だったということ。いわゆる『遅咲き』さ。でも、だからこそ真面目に打ち込めた。私のレースキャリアは1960年代に始まったけれど、それからの10年間がなんと素晴らしい時間だったことか。私はとにかく車の傍にいたかったのさ。祖父はウォルヴァーハンプトンで初めて車を登録した男だったし、父もやはり車が好きで、ランズエンド・トライアルだったかな、そういったレースにも出場していた。そのDNAが私の血の中に流れているのだろう。私は今も銀のタバコ入れを大切に取ってあるが、これは父が獲ってきた沢山ある賞品の1つなんだよ」。




「当時のモータースポーツは、今とはまったく違って、文字通りもっと『身近』だった。まだ子どもの頃の話さ、確か1938年に父に連れられてドニントンで開催されたイギリスGPに行ったのさ。観客席の一番前で観ている私たちとサーキットの舗装路を隔てるものは、たった一本のひもだけだった。遠くで雷のような音が聞こえてきたかと思うと、たちまちタツィオ・ヌヴォラーリのアウトウニオンが現れて、通り過ぎていった。その燃料タンクに何が入っていたのか神のみぞ知るだが、そのガスで私の目からは涙が溢れ、瞬間の迫力が強く記憶に焼き付いた。その時にさ、レースこそが自分のやりたいことだったとわかったんだよ」。

1950年代初め頃まで話を戻そう。当時ジョン・ローズはフォードの販売店でメカニックとしての見習い期間を終えたばかり。寄せ集めで作ったお手製のマシンに乗ってヒルクライムやスプリントのレースに取り組んでいた。



「その後、ハグリー&ディストリクト軽量車クラブで、私はジュリアン・スレルフォールと知り合うことになった。まだ若かった彼の気前の良さが、私のレース環境を大きく変えたのさ。ジュリアンは私をシメイで行われたレースに誘ったが、そこで彼は自分のロータス11を壊してしまったんだ」。帰る途中で彼はこうつぶやいた。「母さんに潰れたロータスを見せるわけにはいかない。エンジンを取り出したら、他は君にやる」。

ラッキーにも私はロータスのシャシーを数年間も使うことができた。さらに彼はRGSアタランタというキットカーも使わせくれた。これも彼がブラックプールの近くで事故を起こして、直せるのならこれでヒルクライムに出てもいいよと言ってくれたから。"ジュリアン様様" さ(笑)」

「アラン・エヴァンズにも感謝すべきだろう。彼は私の親友であり助言者でもあった。事が起こったのは、彼がパブで会計士試験の勉強をしている時だった。医者だったある共通の友人が、アランに元気か?と軽い挨拶をしたら、アランはいらいらしながら『消えろ』と言ったのさ。それを見たキャメロン先生が、彼にストレス発散になる趣味をもたせたらどうかと私に耳打ちしたんだ」。

編集翻訳:石丸 淳 Transcreation: Jun "Romano" ISHIMARU 原文翻訳:木下 恵 Translation: Megumi KINOSHITA Words: Richard Hesseltine

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