ミニ使いの達人ドライバーが振り返る刺激的なレース人生│ミニからF1まで

Photography: Lyndon McNeil / Neil Godwin-Stubbert



これこそがジョン・ローズにとって閃きの瞬間だった。「ちょうどジョン・クーパーのフォーミュラ・ジュニアについて本で読んだばかりだった。すかさず私はアランに“僕たちでそれを買おう”と提案した。彼の父親は工具メーカー、ブリツールの社長だったから裕福だったのさ。組み立てとメンテナンスは私がやるけど運転は交代で楽しもうと提案したら、アランもそれは素晴らしいと答えてくれた。そのとき私にはウォルヴァーハンプトン近くのコズオルに小さな別荘があり、そこには2台分の大きな車庫があった。そこでクーパーを組上げて村中を走り回ったんだ!」。



アランはフロント・エンジンのローラで、数回サーキットを走ったことがあるだけの初心者。1960年、33歳になったローズはそんなアランと組んでレースに挑んだ。「アランはとにかくレースに出たいと言った。初戦はマロリーパークだったが、30台もの車が自分の周りにいる状態で1コーナーに飛び込んでいくのを、彼は愉しむどころではなかった。肝を冷やした彼は、それ以降二度とレースに出たいと口にしなかった。だが親切にも私にはレースを続けさせてくれので、結果として私は素晴らしいシーズンを過ごすことができた。それから徐々にいろいろな友人が関わるようになって、それがミッドランド・レーシング・パートナーシップ・チームになったのさ」。

「F1にも参戦したリチャード・アトウッドの父親は、ウォルヴァーハンプトンでベントレーとジャガーの代理店をやっていて、そこを僕たちの拠点として使わせてくれた。そこはロンドン郊外にあるサービトンのクーパー・ファクトリーに近い!私はクーパーに入り浸って技術を身に付けたものだ」。

翌1961年、ジョンはとにかくレースに専念した。フェニックスパーク、ダンボイン、カーキスタウンで優勝し、MRP(ミッドランド・レーシング・パートナーシップ)でアイルランド・フォーミュラ・ジュニアのタイトルを勝ち取った。

それから一年後、ローズとあのボブ・ジェラードとの永い関係が始まった。まずはボブのクーパーT59で1962年のシルバーストンのインターナショナル・トロフィーを走る。それと同時にアレクシスやオースパーというレーシングカーでフォーミュラ・ジュニアなどに参戦、勝利を重ねた。

「ERAを駆ってマン島のエンパイア・トロフィーを走るボブを見たことがあった。あれにはシビれたね。だから彼のチームに入ることは本当に光栄だったよ。彼は完全なプロフェッショナルだったから、コースに出ることだけでワクワクしたな。例えそれが時代遅れの車であってもね」。



そして、ローズがF1パイロットになったのは、ジェラード・レーシングのクーパーT60に乗って、だった。それはつかの間ではあったのだが。「私は1965年に彼のクライマックス・エンジンでイギリスGPに出た。だが、私にとって最も印象深いレースは、シチリア島のエンナで開催された地中海グランプリだ。コースは湖の周りに作られていて、マシンが湖に突っ込んだ場合に備え、ダイバーが待機していた。でもオーガナイザーの予想に反して、私はフリー走行中に“森”に突っ込んでしまった。シャシーにひびが入り、サスペンションとフレームは曲がってしまったが、それでも私は決勝レースに出場した。出走賞金をもらえるという理由だけでね」。

ジョンの遠回りなF1経験が、結果として彼をミニ・レースでの主役の座につかせることになる。
「1963年にシルバーストンでボブの車をテストしていた時だった」ジョンは振り返る。

「クーパー・チームもそこにいて、メカニックのジンジャー・デヴリンがワークス・ミニの面倒を見ていた。私はフォーミュラ・ジュニア時代に彼とかなり親しくなっていたので、興味半分でその車の試乗を申し出たんだ。GPフォーミュラから、いきなりちっぽけなフロントディスクの箱型に乗り込んだわけで、それはさすがに驚いた。明らかに速すぎるスピードでブラインドにさしかかったので、私はアクセルをゆるめてアペックスを変えながらオーバーステアにしてみた。それから一気にアクセルを床まで踏み込むと、完璧なドリフト・コントロールでコーナーを抜けられたことに気づく。ジンジャーは私のラップタイムに満足し、次にジョン・クーパーが私に契約を申し出てきたのさ」。こうしてローズは一人前のプロのドライバーとなり、レースに集中できるようになった。

引退した彼に心残りはないかと尋ねると、「心残り? 私個人としては、ないな。でも息子のティムはミジェット・チャレンジでタイトルも獲ったほどなのに、地元の新聞でさえ取り上げてくれない。今は情報が多過ぎるのかね。私の時代は確かに厳しかったけれど、一生懸命に頑張れば愉しく生きることが出来たから」。

「私は恵まれていたのかな。良い時代にレースをして素晴らしい時間を過ごし、素敵な妻と息子がいる。私は世界一幸運な男だよ」。彼の笑顔に嘘はなかった。

編集翻訳:石丸 淳 Transcreation: Jun "Romano" ISHIMARU 原文翻訳:木下 恵 Translation: Megumi KINOSHITA Words: Richard Hesseltine

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