エンツォ・フェラーリが1人の男に贈った特別なフェラーリの物語

octane UK



「ひとつ確かなことはね」ルイーズは車を初めて見たときのことをこう語る。
「ピーターが
家に持ち帰ったとき、車はソフトトップが付いていて閉じられていたの。真冬だったから当然よね。ボディの色はとても濃い色で、そう、ダークブルーだったのをよく覚えているわ。でもそれはダークグリーンだったんじゃない?ってよく聞かれるんだけれど、いいえ確かにブルーだったわ」

ボディの色というのは光の加減で違って見えるものだが、もしかしたらこのときもそんなふうに見えたのかもしれない。このスタジオ写真ではグリーンに見えるが、外に出すと日陰ではブラックに、直射日光のもとでは確かにブルーなのである。

250GTカブリオレはひとつの決まった形はなく、顔つきも十人十色だが、なかでもこの車は4台のプロトタイプのうちの最初の1台ということもあって、40台の生産車とは異なる部分がいくつもある。もっとも顕著なのはリアバンパーやテールライトの形状だが、ヘッドライトにカバーがかけられているのも、この車ならではの特徴だ。フロントの両端にはバンパーレットと呼ばれる、万が一の衝突時にグリルを保護する部材まで付いている。



ジュネーヴ・ショーに出品したのちにボディは塗り替えられたが、ほかにもフロントフェンダーにライトが2個追加されている。ソフトトップはちょっとしたミステリーだ。比類ないほどの極上に仕立てられたそれは最高レベルの職人の手による設計・製作のものに替えられているのだが、この車に乗るのがエンツォ自身それに息子にとって近しい間柄だったワークスドライバーとその家族だということを考えれば、その仕様にも合点がいく。

最良の状態
で乗ってもらいたいというエンツォの思いが込められているのである。ソフトトップにはウィンドスクリーンと隙間なく合うようにクロームの接合部が付き、左右のドアには寒い冬でも冷気をシャットアウトできるよう、サイドスクリーンが小さなクロームの飾り物といっしょに装備されている。ショーカーというものは時間との戦いの中で作るものだから、ソフトトップなどヨーロッパの一般的な使い方を最低限満足させればよいというつくりになるものなのだ。

快適性についてルイーズはこう語っている。 「この車でモデナやモンテカルロをよく走ったわ。私たちはモンテカルロではボートで暮らしていたから、港でボートに向けて車をバックさせるとまわりにいた人たちが目を丸くして見ていたのを思い出すわ。私たちはヨーロッパのどのレースにもこの250で出かけたし、ディナーに行くにもお伴はこの車だったわ。全然こわれなかったし、いつも安心して乗っていられたのはピーターのレーシングメカニックが面倒を見てくれていたからね」

 「そうそう、イギリスからモデナまでで旅した
とき、飼っていたネコがギアボックスのふくらんだところにずっといるの。暖かくて居心地がいいのね。パリに行ったときなんかはあまりに気持ちがよくて大きな声をあげるので、私たちがネコを虐待していると思われたらどうしようと恐れたくらいよ」

--{ルイーズとピーターの熱くて甘い日々}--

1台しか存在しないフェラーリのプロトタイプは個性豊かなレーシングドライバーのもとでいい時間を過ごしたが、それも長くは続かなかった。1957年と58年、ピーターはチームメイトのマイク・ホーソーンととても気が合い、プライベートタイムもよく一緒に過ごしていた。

ホーソーンはジャガーDタイプのディスクブ
レーキの熱心な信奉者で、ずっとドラムブレーキを使用するフェラーリよりいかにこちらのほうが優れているかを力説していた。コリンズも同じ考えだった。彼はレースで戦う立場からもディスクブレーキの優位点はわかっていたので、同じものを採用するよう時間をかけてフェラーリを説得した。しかし話だけではうまく行かなかった。

1958年の夏、コリンズは250と共にイギリスで過ごしていた。ハロルド・ハドキンソンに会うためだ。ダンロップに属していたハドキンソンはディスクブレーキの開発に携わっていた。コリンズは自分の250にディスクブレーキを付けられないか、その可能性を打診したのである。ハドキンソンはジャガー・マーク2やXK150に付いているものなら使えそうだとしたが、フェラーリが履いているボラーニ製のワイヤーホイールだとキャリパーのためのスペースが足りないことを指摘した。そこで彼はDタイプからホイールごとフェラーリに移し替え、こうしてディスクブレーキを装備した最初のフェラーリが誕生した。

なにせフェラーリではF1
でもそれまでディスクブレーキを使用してこなかった。最初にディスクを使ったのはこの直後、9月に行われたイタリアGPである。だが、コリンズはその果実を味わうことはなかった。イタリアGPの4週前のニュルブルクリンクで命を落としてしまうからである。ルイーズは悲しみを込めて当時を語る。

「あの事故のあと私はすごく怖くなって、何
カ月か車をフェラーリに預かってもらったの。アメリカに持っていったのはそれから数カ月くらい後のことよ。そのあと車は手放したわ。なぜって、あの車を欲しいと願う人の生き方と私がこれから歩む人生はまったく違うと思ったからなの」

新しいオーナーはオットー・ジッパーというやはりレーシングドライバーで、カリフォルニアでフェラーリのショールームを所有する人物だ。ジッパーはレーシングドライバーとしてもビジネスマンとしても一流だったが、今日我々がカーケアで評価するのとは違うタイプの人間だ。というのも、彼はウィンドスクリーンのまわりをクロームのストライプで囲んだだけでなく、ボディを黒に塗り替え、挙げ句の果てにインテリアを赤い革で縁取りまでしてしまったからだ。彼は何年か持ち続けたあと1964年に、トニー・カーチスやウォルター・マッソー、それにデビー・レイノルズらが出演した『グッバイ・チャーリー』に車を登場させたりもした。




その後、250は3人のアメリカ人のもとを渡り歩いたあと、1986年にボブ・リーのコレクションに収められることになる。彼はいまでもこの250を所有しており、フェラーリ・クラシケの厳しい改善要求をも満足させる方法でレストアを敢行している。きちんとした認可を受けるにはあとひとつ、改善しなければならない点がある。それはダンロップのホイールとディスクブレーキをワイヤーとドラムの組み合わせとし、オリジナルの状態に戻すということだ。

ただ今日、ブレーキとダンロップ・レーシング
ホイールに関する論争は小休止の状態にある。なぜならこの250の場合、こうした改造もどういう理由でこうなったかその経緯を思い出せば、それもまた保存する価値のあるものであり、これ以外にもストーリーに満ちた車だからである。


1957 フェラーリ 250GT ピニン・ファリーナ スパイダー
エンジン:2953cc V12 4OHC ウェバー36 DCZ3キャブレター×3基
最高出力:240bhp/7000rpm トランスミッション:4段MT 後輪駆動 ステアリング:ウォーム&ホイール
サスペンション(前):ダブルウィッシュボーン/コイルスプリング、ウダイユ製ダンパー、アンチロールバー
サスペンション(後):固定軸、ツイン・トレーリングアーム、半楕円リーフスプリング、ウダイユ製ダンパー
ブレーキ:ドラム 重量:1296kg 動力性能(最高速度):150mph(約240km/h)

編集翻訳:尾澤英彦 Transcreation:Hidehiko OZAWA Words:Massimo Delbò 

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